【知道中国 2651回】                      二四・三・初一

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習317)

同じく下旬、福建省機械局のある職員が省都・福州の街頭に「四人組六大罪状」と題する大字報を貼り出し、四人組を徹底批判している。黒龍江、北京、重慶、福建の各地における動きが連携していたとも思えないが、全国各地で四人組に対する怨嗟の声が噴出しはじめたことだけは確かだろう。

だが、こういった声が直ちに中央政治に反映されるほど、毛沢東が“発明”した「人民民主主義」は「人民」による「人民」のための「民主主義」ではなかった。むしろこの場合の「人民」は「もうたくとう」とか「ちゅうごくきょうさんとう」と読むがよさそうだ。

25日、中共中央は各省・市・自治区・大軍区責任者会議を招集し、毛沢東による「党内のブルジョワ階級批判」に関する指示を伝達した。華国鋒は党中央を代表して講話を行い、「当面は鄧小平同志による修正主義の誤った路線を批判しなければならない」と述べている。鄧小平を「同志」と呼んでいる点から考えても、この時点では四人組などの反鄧小平勢力と鄧小平の間は“敵対矛盾”のまで悪化してはいなかったように思える。

とはいえ四人組は鄧小平追求の手を休めることはなかった。だが彼らの末路を知るだけに、それは断末魔の絶叫であり、最後の悪足掻き、といったところか。

「史上空前」の「人々の魂に触れる革命」と喧伝された文化大革命も、開始以来すでに10年の歳月が流れていた。一時は「毛沢東の親密なる戦友」と持て囃された林彪がソ連への逃亡を企てながらモンゴルの砂漠に墜落死(!?)してから5年。四人組による訳の判らない批林批孔運動が始まってから2年が過ぎていた。

さすがの毛沢東も当時は精神的にも疲労困憊の態であり、萎えた気力と衰えた視力ながら、京劇映画に見入る日々であった。その京劇も、自らが声高に推奨し文革宣伝に利用した革命現代京劇ではなく、旧い文化の象徴として抹殺したはずの古典京劇であった。

 このような環境下で出版された『要害是復辟資本主義 批判“三項指示為綱”的修正主義綱領』(人民出版社)は、『人民日報』に掲載された4本の論評を収めている。

それぞれが掲載された日付を見ておくと、①「要継続批孔(孔子批判を継続させよ)」=2月13日、②「批判唯生産力論(生産最優先論を批判する)」=2月15日、③「要害是復辟資本主義(害は資本主義の復辟)」=2月17日、④「緊緊抓住社会主義社会的主要矛盾(社会主義社会の主要矛盾をしっかりと掴め)」=2月18日と、新聞掲載は2月半ばに集中しているだけでなく、奥付に「1976年2月第1版 1976年2月北京第1次印刷」と記されている点からして、大慌てで出版されたと考えられる。

 ここまで短時日の間に出版しなければならなかった要因は何だったのか。やはり北京の権力最上層で、周恩来の死と毛沢東の極端な衰えを背景とする激しいツバ競り合い起きていた解釈するのが最も自然だろう。それぞれの論文の主張を見ておくと、

  1. 「目下、教育と科学技術戦線において右派による反撃との闘いが激しく展開されている。この闘いはプロレタリアとブルジョワの間の激しい階級闘争であり、プロレタリア文化大革命の継続と深化であり、我が党と国家の前途と命運とが掛かっている」。だから「思想の根源において右傾風を吹かせているヤツラの修正主義路線を徹底的に批判し、孔子批判を継続しなければならない」
  1. 生産最優先論を掲げ、「4つの現代化と科学技術は遅れているとほざき、文化教育の後進性に主要矛盾ありと糾弾する勢力」を北京大学から放逐し、右派との戦いを貫徹せよ。
  1. 1975年の1年間も、毛主席の革命路線と劉少奇・林彪のブルジョワ路線の死闘は続いた。北京大学の革命的な教員・学生・職員は満腔の闘志を滾らせ、毛主席と党中央の指導の下で全国民と力を合わせ、艱難辛苦を克服し右派の反撃に勝利するのだ。《QED》