【知道中国 231回】                                〇九・四・十

―それはもう、笑うに笑えず泣くに泣けなかった時代でした・・・ハイ―
『反修哨兵』(劉一凡ほか 人民文学出版社 1976年)



 今風にはパフォーマンスというのだろうが、毛沢東は京劇、相声(おわらい)、説書(こうだん)などの大衆演芸を革命宣伝に利用する名人だった。文字も知らず、本なんぞ読んだこともない農民大衆に「革命」を吹き込むには、演芸が一番手っ取り早い。社会は上部構造と下部構造とで成り立ち、そこで革命とは――などと訳の判らない屁リクツを捏ね繰り回してもはじまらない。「革命とは客を持てなすように淑やかで慎ましやかなことではない」「革命とは貧乏人が武器を持って地主から土地を奪い返し、そいつを分け合うことだ」「土地さえ持てば腹いっぱいメシを食べることができる。これを階級闘争という」「貧乏人よ、決起せよ」「毛沢東を信じ、毛沢東についていけば幸せになる」。簡単明瞭・効果抜群。

 かくして毛沢東は建国以後も巧妙に大衆芸能を使い国民に対する教化・教育を進めた。その最たるものが文化大革命だが、同じ時期、毛沢東は世界革命における盟主の座をソ連と争っていた。中ソの理論闘争は軍事対立にまでエスカレートし、68年には中ソ国境の珍宝(ダマンスキー)島で大規模な軍事衝突まで勃発している。当時、中国はソ連をアメリカ帝国主義に妥協する社会帝国主義、革命を忘れた現代修正主義と激しく罵倒していた。

 この本は、そんな時代に出版された相声(おわらい)の台本集である。書名の「反修哨兵」に加え「踏遍青山人未老」「我愛大海」「鉄鋼民兵」「彩球飛舞」が納められている。毛沢東の教えに従って、笑いのなかで神聖な領土を邪悪なソ連から防衛することの重要性を訴えようというものだ。そこで「反修哨兵」を一例に、当時の笑いを再現してみよう。

 中国の漫才も日本と同じ。舞台にはボケとツッコミの2人が立つ。設定は珍宝島近く。ソ連からのスパイの侵入を阻止しようと設けられた最前線の歩哨拠点である。

 「我われはソ連修正主義・社会帝国主義との闘いの最前線に立つ。軍民はガッチリと団結し、共に理論を学習し、批判し、祖国を防衛し、軍事訓練を行い、持ち場を守り警戒を怠らず、“クソッタレ”を捕縛しよう」と語った後に、向こうからやって来るボケに向かって、「動くな」と警戒の一声。そこでボケが、「さすが、ここでは軍と民兵の連携はガッチリ。蟻1匹も通さない鉄壁の防備態勢だ」。
 これを受けてツッコミが、「ここは修正主義に反対する戦場であり、反修正主義教育のための学校だ。我われ連隊は劉少奇や林彪が撒き散らした階級闘争終焉論を厳しく批判し、階級闘争を要とし、常に人民大衆から新旧のツァーによる中国侵略の犯罪の実情を聞かせてもらっている」と、軍民が団結・協力した反修正主義教育の重要性を強調する。このように原理原則を語った後、ツッコミが女民兵隊長にボケがソ連のスパイに扮し、ドタバタ劇が展開される。

 河の中での格闘で、スパイはしこたま水を飲んでしまう。道に迷った猟師だと言い張るスパイに向かい女民兵隊長は決然と、「中国人民を舐めるな。空から降りてこようが、地下から湧き出ようが、水中から飛びだそうが、中国人民の大海に溺れるしかない。生き残る道はただ1つ。真っ正直に白状し、罪を認めるしかない」。ドロだらけになったスパイの顔を洗わせようと、水が張られた大きな盥が用意された。するとスパイは水を飲まされる拷問かと勘違いし、「もう飲めません」と罪を認める。ここでドッと笑いが起きて幕、となる。

 こんな漫才でも笑わなければならない・・・悲しくも滑稽な時代があったんデス。  《QED》