【知道中国 2646回】 二四・二・廿
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習312)
共産党にとっては1921年の結党以来と形容したくなるような疾風怒濤の1976年の幕が、いよいよ切って落とされた。
『人民日報』、『紅旗』誌、『解放軍報』は元旦の共同社説で、毛沢東の説く「安定団結とはいえ階級闘争が不要というわけではない。階級闘争が綱であり、それ以外は全て目だ」を訴えた。これを“翻訳”するなら、ナニを差し置いても階級闘争であり、一にも二にも階級闘争であり、三、四がなくて五にも階級闘争だ。全身全霊を階級闘争に注ぎ込め! である。だが、だいいち、これではなにを言いたいのか。ハッキリしないばかりか、この場合の階級闘争を具体的にイメージすることができそうにない。
振り返ってみるに共産党官製メディアが誰にも反対できず、どうにでも解釈可能であるばかりか、「階級闘争是網、其余都是目」に類する“呪文”としか思えないような主張を掲げ出したら要注意。党の路線がフラつき、権力基盤が揺らぎ、北京最上層部内で権力をめぐる鞘当てが起きていると考えてホボ間違いはないようだ。
6日になると周恩来は病床で解放軍の各大軍区司令員に接見し、「自分が死んだ後は鄧小平を支持してくれ」と語ったとされる。2日後の8日午前9時57分、周恩来死去。
時計の針が9日を指すや、荘厳な哀悼歌が流れるなか、全国に周恩来の死が告げられた。その日の午前、政治局委員は周恩来の遺体を前に整列して頭を垂れ、最後の別れを告げるのだが、江青だけは帽子を脱がなかった、とか。
これが事実であったなら、常識的には死者に対する冒涜であり、失礼千万だ。さほどまでに周恩来を憎んでいたのかと、憎悪の深さや政治的執念の凄まじさに驚愕するばかり。
だが四人組失脚後に解禁となった“最高機密”に拠れば江青はハゲ頭であり、人前に立つ時は常に鬘を被っていたとされる。だからワザと脱帽を拒否したのではなく、彼女は鬘を付ける余裕もなく慌てて帽子だけ被って遺体と対面するしかなかった。容姿を気にすればこそ帽子を脱ぎたくなかったと考えれば、一片の同情の余地はある。そういえば失脚前後に目にした報道写真の中の林彪は読書姿で、どこか寂しげなハゲ頭だったっけ。
それはともかく、敵に対する彼らの嫌悪感は異次元レベル。執念深さは異常だ。
9日には四人組の牙城であった清華大学において、四人組配下の過激分子が「悲嘆に暮れる必要なし。新陳代謝は宇宙における抗し難い真理であり、弁証法の勝利こそを祝賀すべきだ」とブチあげているそうだから、弁証法では死は新陳代謝の一環らしい。
13日になると姚文元が『人民日報』に対し「総理(周恩来死亡関連記事)を大々的に扱ってはならない。見出しは小さくせよ」と指示する一方、党の通信社である新華社に対しては前後3回に亘って「総理追悼関連記事によって、革命と生産活動に関する記事が蔑ろにされるようなことがあってはならない」と厳命をくだした。
14日、『人民日報』は清華大学の四人組系による「大弁論は大いなる変化を持ち来る」と題する長文論評を掲載したが、周恩来の“実像”を抉り出し、白日の下に曝け出そうと狙ったに違いない。
対するに周恩来の死を悼む動きを追うと、9日を期して北京の民衆が天安門広場に続々と詰めかけ、人民英雄記念碑の周辺で献花がはじまる。数日を経ずして、広場は花輪で埋め尽くされた。この動きが、後の「第一次天安門事件」への引き金となった。
11日、周恩来の遺体は北京病院から共産党幹部や要人の多くが葬られている八宝山に運ばれ、荼毘に付された。沿道に詰めかけ遺体を見送ったのは、多くの名もなき庶民だった。
当日夜、周恩来の遺骨を人民大会堂内台湾庁に安置。「祖国の統一を見届けたい」との悲願を表そうというのだろう。権力者の死は新たな権力闘争を招き寄せる。《QED》