【知道中国 2641回】                      二四・二・初九

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習307)

それにしても「本も新聞も読まないし勉強もしない陰謀家であり野心家」の「林彪のヤロー」を自らの後継者に公式に指名したわけだから、「偉大なる領袖」の“眼力”に超特大の疑問符が付けられてもよさそうなもの。だが、誰もが口を噤んだままで知らんプリ。責任を追及しない。もっともモノ言えば唇寒しだから致し方なし、か。これぞ毛沢東が説く「新民主主義」の実態と考えれば納得できないわけでもない。

「新自由主義」にしても「新しい資本主義」にしても「新」を冠した主義なんぞは、やはり異次元のマガイモノで胡散臭い。だから「信」を置く気にはなれないのである。

残る『中小学生読物 永做一朶向陽花 中小学生作文選(一)』は、大空に永遠に輝く太陽である毛沢東の光を浴びて革命の戦士にスクスクと成長するぞ。ボクたちワタシたちは、太陽に向かって永遠に花開く陽花(ひまわり)の花びらになるのだ――との固く激しく健気な決意が込められた「中小学生作文」を収めている。

たとえば「四川省重慶市第十七小学 蔣小玲」の作品「紅小兵向来匯報」は、

「頭上高く紅旗が翻り、紅小兵(ボクら)は党に報告致します。第一に我らが思想は正しくて、批林批孔運動に邁進します。第二に我らが学習は正しくて、理論と実践がシッカと結びついています。第三に我らが身体は堅固にて、全身に気力が漲っています。素晴らしい成果はどこからもたらされたのか。党の素晴らしい指導に感謝します」

どれもこれも歯の浮いたような予定調和的内容の詩や短文が続くので余り面白くない。そこで当時の農村社会の現実を物語っている作品を拾ってみた。

「野糞を拾う」を書いたのは、四川省の小学校四年生の劉清平クンである。

「青々と油を塗ったように光る細い竹で、おじさんに糞集めの籠を編んでもらった。農業を手助けするために野糞を拾うんだ。お米と綿の豊作を願うんだ。籠を背にして注意を怠らず、糞を拾ったら胸張って。どこまで担いで行くのかな。生産隊の向陽溝だい」

これ以上紹介するまでもないだろう。ともかくも勇ましい限りだが、農村に欠乏していた肥料を補うために、多くの小学生が「お米と綿の豊作を願」って、クソ真面目に「野糞を拾」い続けたことだろう。当時の小学校4年生だったから、劉清平氏は現在では60代半ばに差し掛かっているはず。少年時代の「野糞を拾う」を読み返してみて、どんな感想を持つだろうか。やはり人情としてクサイモノには蓋をしたくなると思うのだが。

1975年12月1日から5日までフォード米大統領が訪中し、毛沢東と会談している。

4日には『人民日報』が『紅旗』(第13期)に掲載された「北京大学・清華大学大批判組」の執筆した「教育革命的方向不容簒改」と題する論文を転載し、「教育界で進められている改革論は修正主義教育路線を復活させ、究極的には文革を否定しようとするものだ」と主張する。鄧小平批判・右派巻き返し策動への反撃の狼煙だろう。

6日に最後の手術を受けた周恩来だったが、病状は悪化の一途。中旬になると食事も摂れず、激痛に苦しむばかり。20日になると、体温は38.7度を記録。

15日に戻るが、「中国のベリア」の異名で恐れられた特務の総元締めである康生(1998年~)が死んだ。振り返れば1942年以来、毛沢東が党内外の権力を独占する過程で数々の特務工作を操ってきただけに、その死は、毛王朝の黄昏の予兆を感じさせる。

1975年12月は毛沢東が水滸伝批判を口にしてから4ヶ月後に当たる1975年12月、水滸伝批判をテーマにした『反面教材《水滸》』(北京大学中文系・聞衆 人民出版社)、『宋江析』(章培恒・黄霖 上海人民出版社)、『水滸簡評』(南開大学中文系《水滸簡評》編写組 人民教育出版社)の3冊が出版されている。四人組勢力は、この4ヶ月間に筆杆子(イデオローグ)を大動員して“付け焼き刃的”に必死に執筆したに違いない。《QED》