【知道中国 2639回】 二四・二・初五
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習305)
かくて1912年1月、孫文を臨時大総統にアジア初の立憲共和制の中華民国は成立する。だが、漢人官僚や郷紳(地主層)が中華民国政権に合流した最大の狙いは権力維持やら土地をテコにした先祖伝来の既得権益の保持であり、共和制や議会なんぞはクソ喰らえ!であった。それゆえ彼らが孫文の存在を認めるわけがない。
だいいち孫文は肝心の軍事力を持たなかった。「政権は鉄砲から生まれる」との毛沢東の至言を持ち出すまでもなく、「鉄砲なしでは政権は生まれない」。これが革命の大鉄則だ。
加えるに孫文は「平均地権」という社会主義的思想を掲げていた。つまり土地を持たない農民にも土地を分配しようというのだから、孫文の政権基盤が固まってしまえば土地を取り上げられかねない。地主にとっては迷惑千万である。ならば先手必勝とばかりに、当時、最大・最強の兵力を抱えた袁世凱に靡き、孫文ら革命派を政権から追放してしまった。
やがて1915年になると、中国に立憲共和政治は似つかわしくないとばかりに、袁世凱は洪憲皇帝を名乗り帝制への復帰を宣言してしまったのである。
一連の動きを、『辛亥革命後帝制復辟和反復辟闘争』は次のように“解読”してみせる。
――時代の流れに逆行し「国政の中心に孔子を持ち出し、復辟し、外国の要求のままに国を売った」がゆえに、1916年3月、袁世凱は「反帝制、反復辟という全国人民が挙げる滅賊の声のなかで“帝制取り消し”を宣言せざるを得なかった」のである。
次いで1917年6月、「日本反動組織黒龍会分子の佃信夫、川島浪速らと結託した」勢力などと連係する張勲が5千の兵力を率いて北京に入城し、滅び去った清朝の廃帝である溥儀を担ぎ出し清朝再興を図った。だが、張勲なんぞは「見てくれだけで中身のない張子の虎でしかない没落階級のブザマな姿を晒しただけ。それゆえ人民が造反するや、立ちどころに敗残の憂き目を味わうこととなった」――
この考えに従うなら、歴史の歯車を逆転させようとしたがゆえに人民の反対に遭って、袁世凱や張勲の政治的妄動は失敗すべくして失敗したことになるわけだ。だが、『辛亥革命後帝制復辟和反復辟闘争』の狙いは袁世凱や張勲の反人民的妄動の告発に向いていたわけだはなく、じつは林彪糾弾と孔子批判にあった。
孔孟の道を奉じ投降売国の道を目指した林彪もまた袁世凱や張勲と同じ「封建王権の化身」。だから「マルクス・レーニンの著作と毛主席の著作を刻苦熟読し〔中略〕修正主義批判を深め、ブルジョワ階級を批判し」て林彪を抹殺し、「プロレタリア階級によるブルジョワ階級に対する独裁を実現させなければならない」というリクツにつながるわけだ。
かくして『辛亥革命後帝制復辟和反復辟闘争』が熱く語るように、「歴史は冷厳である。人民の意志に反し、社会が発展するという歴史の要求を顧みることなく、歴史の歯車を逆転させようなどと妄動するなら、どんな悪鬼だろうが、横車を強引に押そうとしようが、とどのつまりは地獄に堕ちて、地位も名誉も失う」ことになってしまうモノ・・・らしい。
じつは建国前後、共産党政権は鬼や地獄をテーマにした京劇を社会主義の道徳や科学思想に反すると徹底して禁じたはずだが、やはり社会主義にも鬼もいたし地獄もあったことになる。これを論理破綻といっての詮ないことではあるが。それにしても、こういった性質の政治論議に「鬼」や「地獄」は余り似つかわしくないとは思うが、やはり「鬼」や「地獄」を持ち出さないと怒気を鎮められない。これも中国人の発想のクセなのだろう。
1975年11月に入ると、いよいよ反鄧小平の風が吹き始めたようだ。
3日には最高学府の清華大学で毛沢東の意を受けたと思われる鄧小平批判集会(「批鄧反撃右傾翻案風運動」が始まり、8日には上京中の上海の党組織幹部に対し張春橋は「民主派とは走資派(資本主義復活を目論む勢力)だ」と暗に鄧小平を批判している。《QED》