【知道中国 2638回】 二四・二・初三
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習304)
習近平指導部が毛沢東式学校教育の超優等生だったなら、現在の中国の内外政策から滲み出てくる姿勢や“政策上のクセ”は文革教育の理想の具現化と見なしてもよさそうだ。
それにしても学校に対する毛沢東の考えは革命家としてはあまりにも直截であり露骨が過ぎて、空恐ろしい限り。だが、こういった時代の学校教育が現在に続く共産党政権の教育観にどのように引き継がれているのか。これまた興味深い点だ。
1975年10月は四人組が一種の“宮廷クーデター”によって失脚する1年前であり、毛沢東の死の11ヶ月前に当たる。毛沢東にしても四人組にしても、権力を弄ぶ期間は残り少ない。いよいよ始まったカウントダウンを頭の片隅に置いて話を進めてみるなら、共産党最上層における権力闘争とメディアの相関関係も浮かび上がってくるのではないか。
周恩来は人生の終焉を迎えつつあることを自覚したのか、病院で周囲に「あと何日生きられるか」などと洩したとも伝えられる。24日には5回目の手術を前に、鄧小平の手を握りながら「オレなんぞ較べものにならない」と政界復帰後の業績を称えた、とされる。
その鄧小平だが、7日には「毛沢東の学習理論を以て安定団結を促し、『三項指示を綱』として国民経済を向上させること」を趣旨とする「論全党全国各項工作的総綱」の執筆を指示する。ここで示された「三項指示」だが、なにを指すのか不明だ。あるいは1971年8、9月に南部巡察を行った際、国家主席に執心する林彪の問題に関し毛沢東が示した「マルクス主義で行くべきで修正主義はダメだ。団結が肝要で分裂はダメだ。公明正大に進めるべきで陰謀奇計に奔るべきではない」の「三項基本原則」を指すのかもしれない。この辺りは、もう少し調べる必要があるだろう。
いずれにせよ、その後の展開を見定めながら考えるなら、鄧小平の振る舞いは数年後に一気に踏み切ることとなる改革開放政策を想起させるばかりか、見方によれば所謂「毛沢東の旗を掲げて毛沢東に反対する」の道を意図的に突っ走りはじめたようにも思える。
さすがに毛沢東の茶坊主で政治的野心を大いに秘めた毛遠新だ。早くも鄧小平の姿勢に危険なニオイを嗅ぎつけたらしい。毛沢東の耳元にソッと、何回も、シツコく「伯父さん、文革に対し2つの態度がみられますよ。1つは不満で、もう1つはキレイさっぱりとケリをつけよう。文革による損得勘定を清算しようってんですよ」と囁いたとされる。
10月も押し詰まった頃、毛沢東の老いさらばえた肉体は悲鳴をあげはじめた。喘息は悪化し、痰が絡まり、排尿機能が極端に低下する。日がな一日書斎に籠もり、台湾や香港の映画を見続けていたと伝えられる。
手許に残る10月出版のものは『中国儒法闘争史話』(柳州鉄路局桂林機務段工人理論組・広西師範学院歴史系七三級工農兵学員編写 広西人民出版社)、『《塩鉄論》選注』(北京汽車製造廠工人理論組 中華書局)、『《学点歴史》叢書 辛亥革命後帝制復辟和反復辟闘争』(劉望齢 人民出版社)の3冊。
『中国儒法闘争史話』と『《塩鉄論》選注』の内容は以前出版された類書の焼き直しであり、敢えて取り上げるべき論点は見当たらない。そこで、この2冊はスルーして、3冊目の、「プロレタリア独裁に服務し、社会主義革命期の現実闘争に服務し、思想と政治路線教育の進行に服務するため」に編まれた「《学点歴史》叢書」の1冊である『《学点歴史》叢書 辛亥革命後帝制復辟和反復辟闘争』を読むこととする。
1911年10月10日、長江中流の要衝である武昌に辛亥革命の烽火が挙がるや、袁世凱を筆頭とする清朝上層の漢人官僚、それに郷紳と呼ばれる地主たちは清朝を見限り革命陣営の旗印を揚げ清朝崩壊後の新しい社会に備えた。歴史の潮流に応じたわけではない。孫文という“勝ち馬”に乗っただけ。これが辛亥革命の“不都合な真実”である。《QED》