【知道中国 2636回】 二四・一・卅
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習302)
文革期、彼は学術・メディア界で大きな影響力を発揮したイデオローグ集団「梁効」の構成員でもあった。それにしても「ひっくり返された歴史は、もう一度ひっくり返さなければならない」との言葉は、馮友蘭の学者人生そのもの――生き抜くことに対する凄まじいまでの執念――を感じさせるに十分だが、ならば最終的になにを守ろうとしたのか。
ここで参考までに陳寅恪を紹介しておきたい。彼は、毛沢東独裁下で馮友蘭とは対極に位置づけられるような苦難の人生を敢えて選んでいる。
清朝崩壊のキッカケとなった辛亥革命は1911年。翌1912年にはアジアで初の立憲共和政体の中華民国が誕生したのだが、確固と統一した中央政府が動き出すことなく、中華民国は四分五裂状態に陥る。混沌・混乱の時代を経て、1949年には共産党一党独裁(というより毛沢東個人独裁)の中華人民共和国が建国された。つまり40年前後の短時間の中で、中国人は封建帝国、民国、人民共和国の3つの異なる政体に身を委ねざるをえなかった。
このように価値観の激変した時代の渦中で、学者として節を守り抜くことは想像するだに至難であったはずだ。そんな社会において、陳寅恪は中華文明の精華たる文史(=文学と歴史)を人生を賭してでも守ろうと、敢えて茨の道に突き進む。志操堅固・一貫不惑。
1953年、その学識を高く評価する共産党政権から中古史研究所所長就任を要請される。建国から4年を経た当時、毛沢東が掲げる政策の「倫理的側面」が内外から盲目的な賞賛を浴びたがゆえに、毛沢東の声望は高まる一方だった。であればこそ、そのポストは“毛王朝の高級幕僚”への道を確約したも同じであり、毛沢東という至上のパトロンを得ることで、この上なく華やかで充実した学者人生を終生満喫できたであろうに。
この要請に対し、陳は所長就任条件――①マルクス・レーニン主義を信奉せず。②そのことを最高権力者が公式に認めよ――を突きつけた。相手が毛沢東であれ自らが究めようとする学問領域には断固として口を差し挟ませないとの固い決意こそ、文史学者の矜持だったに違いない。だが陳の“身勝手”をスンナリと受け入れるような毛沢東ではない。心底からの偏執・非情・冷徹・峻厳・酷薄・残忍・・・権力者の業(カルマ)だ。
50年代後半から文化大革命へと続く疾風怒濤の時代においても、陳の志操が挫けることはなかった。広州の中山大学では、広東省を拠点に中国南部で強い影響力を発揮していた陶鋳の厚い庇護を受け研究と教育の日々を送る。陶からすれば、陳は食客ということか。
失明、大腿骨骨折による両足切断の悲劇にも、陳はたじろがない。全ての中国古典の一字一句まで刻み込んでいるような彼の頭脳が考察・探求を止めることはなかった。ほぼ寝たきりの彼を支えたのは妻、助手、同僚、看護婦――すべて女性である。学問に殉じる硬骨漢ではあるが、朴念仁ではなかったようだ。
だが頼みの綱の陶鋳は文革で失脚してしまった。その時を待っていたかのように、紅衛兵の攻撃は堰を切って激化する。スピーカーのボリュームをいっぱいに上げ耳元で悪罵を浴びせ続ける。すると陳の全身に震えが起こり、ズボンが小便で濡れてしまう。窮状を訴えるが、紅衛兵(共産党中央?)からの反撃を恐れる大学当局が取り合うわけはなかった。
林彪を公式に毛沢東の後継者に定め、毛沢東が「勝利的大会!」と絶叫した第9回共産党全国大会が開かれた1969年、清末光緒16(1890)年に湖南省長沙に生まれた彼の79年に及んだ人生は無残・無念・無慈悲にも閉じられてしまう。
陳のような知識人を産み育て生かし尊敬し畏怖しながらも、とどのつまりは笑殺、やがて封殺・謀殺・愁殺へと向かう。中国社会は、そうやって続いてきたようにも思えるのだ。
馮友蘭(1896~1990年)と陳寅恪(1890~1969年)――同時代に生きた2人が、共産党政権下で学問を以て生き抜くことの困難さを伝えている。《QED》