【知道中国 2635回】                      二四・一・念八

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習301)

新中国で生まれ変わって生きていくためには「真面目な態度こそが望まれます」と毛沢東から“心温まる説諭”を受けた「あなた」こそ、『論孔丘』を著した馮友蘭である。

馮友蘭は国民党時代に犯した“前非”を深く、より厳しく悔い改め、社会主義の新中国で“真人間”に「翻身(うまれかわ)」り、人民への奉仕に努めたいと毛沢東への恭順の意を示す書簡を、10月5日に送っていた。これを言い換えるなら、呆れるほどに手回しの早い思想的無条件降伏宣言、いや絶対必死・起死回生の生き残り策とも考えられる。

 北京大学卒業後、コロンビア大学に留学。同大学で取得した哲学博士の称号を引っさげて1923年に祖国に“凱旋”する。以後、中州大学、広東大学、燕京大学、清華大学などで哲学を講じる一方、朱子学と陽明学を柱とする儒教哲学の再構築を試みた。やがて「新理学」と呼ばれる哲学体系を樹立し、40年代には中国哲学の旗手として知られたのである。

 ところが毛沢東が共産党を従えて中国の最高権力者に就くや、サッサと自己批判し、それまでの学問と生き方を逸早くキレイッサパリと捨て去り、マルクス主義への路線転向を急転直下気味に大々的に表明したわけだ。かくて蔣介石政権時代の“前歴”を問われることなく、共産党政権成立後も北京大学哲学系教授にスンナリと納まり、学界の権威としてシレッと、いや生真面目(?)に、坦々と講義を続けるのであった。

毛沢東が反右派闘争を発動し党内外における権威を確立した1957年、哲学的命題は時代を超えて抽象的に継承可能という「抽象継承法」なる理論に行き着き公表するも、唯物史観に反する唯心論である批判される。すると、それをトットと引っ込めてしまった。変わり身の素早さに驚くばかりだが、おそらく懸命の生存術でもあっただろう。

二度あることは三度、いや四度でも五度でも、いやいや限りなく続く。ここで取り上げる『論孔丘』もまた、その動かしがたい証拠だったような気もする。

 馮友蘭は「前言」で「1973年秋、広範な広がりを持った批林批孔運動が展開された。運動が始まった当初、私の心は極度に緊張し、マズイと思った。プロレタリア文化大革命以前、私は一貫して孔子を尊敬していたではないか。いまは批林批孔の時だ。ならば私は、またまた批判の対象にされてしまう。その後、この考えは間違っていると思うようになった。それというのも、この考えはやはり文化大革命以前の私の旧い考えから出発したものだからだ」

「いまや、これまでなされてきた基盤に立って孔子批判を進め、過去の私の孔子尊敬思想を批判しなければならない。革命大衆と共に批林批孔を進めることを願うばかりだ」

このように、またまた自らの過去を“懺悔”し、老骨に鞭打ち、勇躍として孔子批判の最前線に立ち、以下の論陣を張り、孔子を口汚く罵るのであった。

 ――奴隷社会から封建社会への歴史的大転換の時期である春秋期に生きた孔子のアホーは、思想的にも行動の上からも復古路線を歩いた。ヤツが口にした「天下無道」の「道」とは旧い階級が大手を振って歩いていた「道」であり、ヤツが困惑の極みとする「天下大乱」の「乱」とは旧い階級を駆逐するために新しい階級が起こす正しい「乱」なである。

ヤツは旧い階級、つまり没落してゆく奴隷主貴族階級の旗振り役を一心不乱に演じ、労働人民に敵対した。ヤツが掲げる「徳治」の「徳」は元来が欺瞞でありニセものだ――

 そして『論孔丘』の最後を次のように結ぶ。

 「私が過去に記した尊孔の文章の凡ては孔丘をより“神格化”しようとしたもの。だが歴史の法則は無情である。ひっくり返された歴史は再度ひっくり返さなければならない。かくて今こそひっくり返されたのだ。これこそが毛主席が自ら発動し、領導された文化大革命の勝利であり、批林批孔運動の勝利である」・・・ウ~ン、そうきましたか。《QED》