【知道中国 2634回】 二四・一・念六
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習300)
『怎様使用詞語 ――漢語詞語学習』(李行健・劉叔新 天津人民出版社)も、1975年8月の出版だ。読み手に分かり易く、書き手の意思を効果的に伝える文章を記すためにはどのように「詞語(単語・熟語)」を使うべきか。実例を挙げながら懇切に説いている。これまで扱ってきた一連の言語関連書も同じだが、やはり中国における修辞は遙か古代の諸子百家の時代から万古不易の革命的文章術であり、これからも筆子(ペン)こそが革命闘争やら権力闘争の最前線における最も鋭利で破壊的な武器であり続けることだろう。
1975年9月に入ると、水滸伝批判が権力闘争の前面に打ち出される。
1日には理論誌『紅旗』に「『水滸』を反面教材とし、全ての人民に投降派を知らしめよ」と題する評論が掲載され、4日には『人民日報』が「『水滸』に対する評論を展開せよ」と題する社説で、『水滸伝』に対する毛沢東の考えを明らかにした。これを機に、全国の新聞・雑誌など定期刊行物が『水滸伝』や投降派に関する議論を取り上げ始めた。
17日に江青が公の場で『水滸伝』に関する講話を行ったことを知った毛沢東は、「クソッタレが。原稿や録音を外部に出すな。講話を印刷して公表するな」と戒めたとか。だが彼女がしおらしく口を噤んでいるわけがない。
19日になると、「(『水滸伝』の問題は)単純に文芸評論でも、まして歴史評論でもない。それというのも党内の路線闘争は10回を重ねてきた。これからも続くだろう」と。江青は天を衝くほどに意気軒昂の態だ。
どうやら毛沢東と江青(四人組)の間の『水滸伝』問題に関かんする思惑の違いが見られるようだが、ここで登場するのが毛沢東の茶坊主で甥の毛遠新である。月末から11月初めにかけ、毛沢東の耳元で「どうやら好ましからざる風が吹き始めたようです。今度のは、極左批判を口実に文革否定を試みた1972年のアレよりもっとタチが悪そうです」と何回も囁いた、とか。
一方の鄧小平だが「整頓」の2文字を掲げ、農村を先頭に文革によって荒廃した社会の立て直しに奔走する。
20日、手術室に入る手前で周恩来は突然目を見開き「オレは党と人民に尽くした。投降派ではない!」と絶叫したとか。「投降派」が自分を指していることを知るゆえだろう。
ところで、この時点で判明した四人組の拠点である上海における武装状況だが、王洪文主導で人民武装部と民兵指揮部の合体が試みられ、「第二武装」勢力が上海、湖南、安徽などで製造・購入した銃は4.8万丁強、指揮車両10台、レーダー指揮装置10台などを備え、最終的には30個歩兵師団、10個高射砲師団、1個戦車師団、さらに130mmロケット砲108門、高射砲782門を擁する計画だったとか。これだけの兵器が揃ったら相当の破壊力だろうが、四人組失脚後の情報だから、やはりマユツバモノと心得ておきたいのだが。
どうやら四人組は新たな正面の敵として「投降派」に照準を定めたようだが、活字メディアでは相変わらず批林批孔モノが続く。
先ず『論孔丘』(馮友蘭 人民出版社)を取り上げたい。
天安門の楼上に立ち傲然と建国を宣言した日から2週間余が過ぎた1949年10月13日、毛沢東は建国前の中国を代表する高名な哲学者に“猫なで声”で呼びかけた。
「人々が進歩することを大いに歓迎します。いま、かつて犯した誤りを正そうと準備しているあなたのような方が実践できるならば、この上なく素晴らしいことです。ゆっくりと時間をかけて悔い改めればいいわけです。短兵急に救いを求めるなんぞは、まったく必要はありません。なにはともあれ、真面目な態度こそが望まれます」
暖かく寛大な心の裏側に潜む冷酷さ。それが独裁者の人心収攬術に違いない。《QED》