【知道中国 2633回】 二四・一・念四
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習299)
洪秀全の周りには農地を求める農民だけでなく、仕事にあぶれた運送業者、港湾荷役人足、果てはゴロツキなど不平不満分子が集まってくる。かくて1851年、広東省西隣の金田で挙兵。清朝に叛旗を翻し、太平天国を打ち立てた。
清朝を正統王朝だと見る立場からすれば洪秀全の動きは「乱」であり、それゆえに一般には「太平天国の乱」と呼ぶ。だが清朝封建支配に歴史的正統性なしと主張する共産党は、「乱」ではなく「革命」と捉え、「太平天国革命」「農民革命」と讃える。後者の立場に立つからこそ、書名は『金田起義』でなければならないわけだ。
『金田起義』は19世紀の半ば当時を西欧植民地勢力による略奪と圧迫に対するアジア、アフリカ、ラテン・アメリカにおける「民族解放闘争の最初の高揚期」と捉え、太平天国の金田挙兵から瓦解(1864年)まで過程を世界史の象徴と見なし、「何処であれ搾取があり、圧迫があれば、必ずや反抗があり、闘争がある」という毛沢東の“金言”に沿って記されている。
攻略した南京を天京と名づけ都とするなど、一時は揚子江以南を制圧した太平天国ではあったが、①急拡大する支配地域に即応できるようには統治機構は整備できない。②支配地域の拡大は地域内の農民の急増をもたらし、急増する農民に平等に農地を分配できなくなった。③地主を中心に各省有力者が結束し郷土防備のための軍隊(=郷軍)を組織し抵抗した(この勢力が後の軍閥の温床となる)。④列強が中国における利権確保のため軍事防衛行動に奔った。⑤太平天国指導部内での対立が激化した――などから、太平天国は崩壊してしまう。
『金田起義』は「金田起義は漢族人民を主体に、チワンや瑶などの兄弟民族と共同して起こされた」。「太平天国の指導者たちは当初から革命の団結に注意を払い、圧倒的多数の貧苦の農民を自らの周囲に団結させ、分散する革命の力を革命の巨大な流れに結集させた」。「軍民が団結し、上下が団結し、共に手を携えて敵に当たる。これも太平天国の基本的な経験の1つだ」と総括するが、この路線は共産党公認の毛沢東革命路線に酷似、いやそのもの。
だから『金田起義』も毛沢東に対する“讃仰”に行き着いてしまう。まさに予定調和だ。
――「太平天国革命の偉大な歴史的功績は永遠に消え去るものではないが、農民革命に止まる。階級的・歴史的条件から判断して、その限界は明らかであり」、とどのつまりは「反帝国主義・反封建主義闘争の任務を果たせなかった」。事実が証明しているように、毛主席と中国共産党があり、毛主席の革命路線の指導があってこそ、帝国主義とその走狗による中国の反動的支配に最終的に打ち勝ち、孔孟の道を徹底的に批判し勝利することができるわけであり、歴史に付与された我らの偉大なる使命は完遂する」――
これを要するに、『金田起義』の主張に拠れば、中国史における時代区分は毛沢東前(Before Mao=BM)と毛沢東後(After Mao=AM)の2つしかなく、AM時代こそが真っ当な歴史であり、BM時代はAM時代を導くための一種の“捨石”でしかなかった、といわんばかりだ。
まさか、これを「BM・AM歴史観」と名づけ、どこぞのコンビニ・チェーンの店名のようだなどと揶揄する積りはないが、そういえばコンビニは中国語で「便利店」と呼んでいるはずだが。
ところで「チワンや瑶などの兄弟民族」とは全く便利な表現だ。少数民族を見下しているくせに身勝手が過ぎるが、少数民族に漢語教育を推し進めるなど少数民族に対する漢化政策を推進する習近平政権は「兄弟民族」なる表現をどう受け止めているのか。《QED》