【知道中国 2628回】 二四・一・仲四
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習294)
1975年7月に入るや、北京では「打倒江青」「打倒張春橋」「打倒王洪文」「打倒姚文元」と記された標語が貼り出される一方、「彼女は人民を導く同志ではない。とどのつまりが帝国主義・修正主義・反動の走狗であり、内なる敵であり、叛徒にすぎない」と江青に対する揶揄・批判が聞かれ始めたようだ。地方でも、たとえば江蘇省では、呉橋県の機械工が党県委員会宛てに姚文元批判の公開書簡を送っている。これらの動きは文革最盛期では全く考えられず、やはり四人組に黄昏が迫っていたとみるべきだろう。
毛沢東は白内障手術が成功し自分の目で書類を読めるようになったからか、積極姿勢に転じ、共産党最上層の政治的雰囲気は一気に緊張感を増す。毛宅党の積極姿勢の一環だろうか。甥の毛遠新を連絡員に仕立て、代理として政治局常務委員会への出席を促した。
文芸問題に関しても毛沢東は、「党の文芸政策には調整の必要あり。1年、2年、3年掛けて徐々に文芸作品を拡大せよ。詩歌も、小説も、散文も、文芸批評も、ともかくも少なすぎる」と指示している。
周恩来の病は篤く、死期を悟ったのか、1日には病室に外相の喬冠華に加え身辺警護員や看護師を呼び入れ記念写真を撮影している。その際、「これが最後のキミたちとの最後の集合写真だ」と口にしたとか。
鄧小平は中国科学院の改組を進め、「党の領導を強化し、党の作風を整頓せよ」と題した講話を行い(4日)、解放軍委員会拡大会議で「全党・全軍・全国人民は2年でも、5年でも、10年でもいいから断固として時間をムダにしてはならない」とハッパを掛け(15日)、毛沢東に対しては「老九(知識人)を追いやってはならない。やはり必要なのだ」と進言している(20日)。
毛沢東と鄧小平、ことに鄧小平の動き、加えるに巷にみられるようになった反四人組の予兆に対し、四人組が際立った対応をみせることはなかったようだ。
四人組退潮を予感させるものの、『青年自学叢書 儒法闘争史話』(曹思峰編著 上海人民出版社)、『読《商君書》』(北京鉄路分局工人理論小組 人民出版社)、『晁錯及其著作』(北京衛戍区某部六連理論小組 中華書局)、『少年歴史故事叢書 中国的古代文物』(尚博青編 上海人民出版社)、『中国歴史上的宇宙理論』(鄭文光・席沢宗 人民出版社)と、相変わらず批林批孔・法家がテーマの出版は続く。
『青年自学叢書 儒法闘争史話』は、「偉大なる批林批孔運動」に参加した10数人の「工場や農場出身の青年労働者」が「上海市革命委員会の関係する歴史学習班」に参加し、「全身全霊の革命的熱情を込めて批林批孔の闘争に積極的に参加し、闘争を重ねるなかでマルクス・レーニン主義と毛沢東思想を学び、儒法闘争と階級闘争における全過程の歴史を研究した」うえで書き上げたと、出版に至る経緯を綴っている。
春秋戦国時代から清末までの歩みを全て儒法闘争で切り分け、歴史を前に推し進めようとする法家の進歩的・革新的な試みが、既得権益を墨守しようとする権力者の側に常に立つ儒家の策動によって阻止・破壊されてきたことを、400頁ほどの紙幅を使って懇切に“論証”してみせる。
だが人間の営みは単純明快にリクツ通りに進むわけがないだろう。だからこそ『青年自学叢書 儒法闘争史話』は多くの類書と同じように批林批孔運動が産み出した“時代の徒花”であり、歴史書を装ったアジビラの束といっておきたい。
ここである疑問がフト頭を過った。この本の“教育効果”が現在に続いていたとするなら、当時の青年世代で構成された習近平政権が掲げる「中華民族の偉大な復興」と「中国の夢」には、儒家否定・法家評価という意味合いも込められているのだろうか。《QED》