【知道中国 2627回】 二四・一・仲二
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習293)
結論を先に言えば、『語法 修辞 邏輯 一・二・三分冊』が目指すのは、日常生活に根ざした、誰にでも判り易い文章を書くこと。これに尽きる。
一例を挙げれば、産児制限に反対する際、毛沢東は「人が1人生まれれば口は1つ増えるが、手は2本増える。だから生産は消費を上回る」と説き、大躍進政策をブチ上げる際には「白い紙にはなんでも描ける。『一窮二白(徹底した貧乏)』の中国は白い紙だ。貧乏は中国の特徴だ。だから中国は何でもできる」と傲然と言い放っている。
毛沢東は、最高学府・北京大学の学長でアメリカ留学においては人口学者のマルサスに学んだ馬寅初の「人口は出産を制限しなければ将来的に中国は破綻する」との考えを徹底批判し、「人が1人増えれば・・・」と巧妙な比喩を使って産児制限不可を強く主張した。
たしかに「人が1人生まれれば口は1つ増えるが、手は2本増える」ことに間違はない。そこで口を消費、手を生産に喩えたわけだが、人口は幾何級数的に増加するが、生産は算術級数的にしか増えない。「だから生産は消費を上回る」わけはない。
また1950年代末期の旧社会のシガラミの多くを引きずった社会構造や極めて低レベルに止まったままの民力に目を向けずに、一気に社会主義化を進めようと大躍進政策を掲げた際、毛沢東は先に挙げた「白い紙にはなんでも描ける・・・だから中国は何でもできる」と傲然と言い放ったわけだ。もちろん「白い紙には何でも描ける」だろう。だが人々が見せつけられたのは、最大限4000万人ともいわれる餓死者の山――悲惨すぎる絵でしかなかった。
たしかに毛沢東の比喩は判り易く、取り敢えず信じ込んでしまいそうだが、冷静に考えると何処か間尺に合わないヘリクツだ。だが権力が異議を唱えることを封殺してしまう。かくして行き着く先に待ち構えていたのは悲劇的結末だったのだ。自らを取り巻く客観状況を深く勘案しないままに突き進んだ先には、地獄の釜が蓋を開けて待っていた。耳に心地よく響き、心が沸き立つような修辞は詐術と五十歩百歩と心得るべし、である。
『語法 修辞 邏輯 一・二・三分冊』は冒頭で「何が修辞か」と問題を提起し、「我われは社会実践のなかで、言葉を使って思想を交流し宣伝を進めるが、とどのつまりは話すことであり文章を書くことだ」。「正確に、鮮明に、生き生きと客観事物を反映させ、言葉を推敲し練磨しなければならないが、これは決して単なる言語問題に止まるものではない」と説き、自らの考えを相手に納得させ、信じ込ませてしまうためには語法(文法)・修辞・邏輯(ロジック)を学ぶことが絶対不可欠であると強く主張している。
これを昨今の我が国に当て嵌めて考えるなら、看板倒れが明らかになっているにもかかわらず、なんとも不可解な「聞く力」をなおも頼りに、マトモな国民に総スカンされているような子育てやら増税やら政治改革やら「異次元の政策」――正確には「異次元の弥縫策」だろうに――を次々に打ち出し、「国民の先頭に立つ!」などと軽々しく“決意表明”するだけで悦にいっているような指導者はウソッパチ、ということだろう。
要するに文革時であれ現在であれ、中国においては語法・修辞・邏輯を錬磨してこそ権力を握れる。思うが儘に権力を発揮しようとするなら、言葉によって人々を徹底して持ち上げ、時に恫喝を加えて激昂させ、考える暇も与えずに煽りまくり、誑し込むがいい。そのためには語法・修辞・邏輯を徹底して自家薬籠中のものとせよ。語法・修辞・邏輯の学習と研鑽と練磨とは権力への道を突き進む最良の方法である――こう『語法 修辞 邏輯 一・二・三分冊』は教えている。
そこで立ち止まって考える。習近平政権が掲げ続ける「中華民族の偉大な復興」や「中国の夢」が描こうとする“富強の中国”は、はたして『語法 修辞 邏輯 一・二・三分冊』を完全にマスターした末に捻り出されたスローガンのように思えるのだが。《QED》