【知道中国 2626回】                      二四・一・十

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習292)

「双十協定」から3年半ほどが過ぎた1949年春、国共内戦の帰趨はほぼ定まり、人民解放軍を従えた毛沢東は拠点の西板坡を離れ北京(当時は北平)に駒を進める。

北京入城を果たして程ない頃、毛沢東は天安門近くの長安大戯院2階正面のロイヤル・ボックスに、朱徳、劉少奇、周恩来、任弼時ら革命の元勲を左右に従え、京劇の幕開けを待っていた。

やがて開場鑼が鳴り、舞台が始まる。演目は「覇王別姫」。虞姫を演ずるのは京劇界の至宝であり中国文化の精華と讃えられた梅蘭芳だった。当時の京劇界の総力挙げて、稀代の戯迷(きょうげき・くるい)である毛沢東を迎えたわけだ。項羽が蔣介石で虞姫が宋美齢ときたら、もちろん勝者である劉邦は毛沢東で決まり。形を変えた借古諷今であり、毛沢東賛歌でもあったと見なして間違いなし。

もうすぐ中国の新しい皇帝に納まる毛沢東に対し、京劇界による総力を挙げての拍馬屁(ゴマスリ)だった。新しい皇帝の歓心を繋ぎ止め、あわよくばパトロンに仕立てあげてしまおうという魂胆であったに違いない。京劇界には新しい大パトロンが必要だったのだ。

当時、梅蘭芳の名声は中国全土に鳴り響き、庶民レベルを考えれば、毛沢東なんぞ比較にならないほどに超の字の付いた有名人だっただろう。その梅蘭芳を筆頭に数多の京劇役者の大看板が挙って毛沢東に恭順の意を示したのである。それまで蔣介石政権から「毛沢東や共産党は民族の大敵だ。匪賊だ。追い剥ぎ強盗だ。流氓だ」と耳にタコができるほどに聞かされてきた庶民にしてみれば、あの梅蘭芳までが両手を挙げて支持するわけだから、毛沢東にしても共産党にしても存外に悪くはなかろう。蔣介石が罵るほどにワルサはしないだろうに――こう受け取ったとしても決して不思議ではない。「覇王別姫」は京劇界の生き残り策でもあり、同時に新しい中国の誕生を告げる祝砲ではなかったか。

中国は、やっと戦争のない時代を迎えようとしていた。国民党との内戦にほぼ決着がつき、革命成就は目前であり、もうすぐ天下は我われの、いや毛沢東のものになる。

こう振り返ってみると、「覇王別姫」は毛沢東からすれば2度の大勝利――1940年10月と49年4月――を言祝ぐ記念碑的演目であったに違いない。にもかかわらず批林批孔運動は、毛沢東と共産党政権にとってサイコウに縁起のいい「覇王別姫」をアッサリと「壊戯」と決めつけてしまった。

ならば『批判壊戯文輯』の筆者は、「偉大なる領袖」の感情を敢えて逆撫ですることを躊躇わなかった。毛沢東の心の内を“忖度”する必要性なんぞ考えもしなかった。たとえ毛沢東が気分を害そうが取り立てて気にすることなく、批林批孔運動が掲げるヘリクツを飽くまでも貫こうとした。だとするならば毛沢東の権力と威信を背景にしたカリスマ性に知らず知らずのうちに綻びが生じ、「紅い太陽」に黄昏が迫っていた、とも考えられる。

閑話休題。

1976年5月分で残る上海師範大学と復旦大学の中文系組織が編集した『語法 修辞 邏輯 一・二・三分冊』(上海人民出版社)に移りたい。表紙に「上海市大学教材 試用本」と銘打たれているが、後に上海の大学で教科書として正式採用されたかどうかは不明。  

巻頭で「我われの多くの同志は文章を綴る際に大いに党八股を好み、生気がなく、実態から離れ、読み手は頭を痛めてしまう。文法にも修辞にも心を配らず、古い文章体と会話体とが混じった文体を好み、時にバカバカしい文章を綴り、時に懸命に古臭い文体をなぞり、まるで彼らは読み手に苦痛を与えることを心懸けているようだ」(『毛主席語録』)と、党官僚特有の型に嵌って無味乾燥であり、躍動感の微塵も感じられない文章を「党八股」と蔑称気味に退けるが、どうやら、この辺りに出版の狙いが潜んでいるようだ。《QED》