【知道中国 2625回】                      二四・一・初八

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習291)

 京劇の「覇王別姫」の種本は『漢楚軍談』。秦朝崩壊後の天下大乱の時代、長江下流に位置する沛県出身の下級役人で好色な無頼漢、後に漢帝国を打ち立てることになる漢王劉邦と、西楚覇王と呼ばれた項羽による天下分け目の大戦争いが背景となる。

徐々に劣勢に陥り遂には劉邦軍によって滅びの道を突き進まざるをえなくなった項羽と、項羽に付き随う愛妾の虞姫の悲劇が舞台に描き出される。阿修羅の如き形相で単騎敵の陣中に切り込み獅子奮迅の戦いの後、矢折れ刀尽きる。十重二十重に取り囲む敵を前に、自らの命運が尽きたことを嘆きつつ傲然と立ち尽くすところで芝居は終わる。

 日本人には「判官贔屓」という心情があるが、「覇王別姫」の舞台が好まれてきた背景を考えるに、なにやら中国には中国人なりの判官贔屓――敢えて「項羽贔屓」とでも言っておこうか――があるようにも感ぜられる。

 ところで注目すべきは『批判壊戯文輯』が「覇王別姫」を「壊戯」とする論拠だろう。単刀直入に評すれば簡単至極で単純明快のうえに牽強付会で支離滅裂。劉邦は法家思想に基づいて混乱の中国を統一し漢帝国を築いた偉大な皇帝であればこそ誉め讃えられるべきであるものを、その劉邦を狂言回しの“敵役”に配し、自業自得で滅びた項羽の悲劇を過剰なまでに美しく描きだす。こんな演目は罷り成らん、というわけだ。

まるで子供騙しのヘリクツだと思うが、それが真顔で論じられたのが、今から半世紀ほど昔の批林批孔時代の一面の真実であったことを、よもや忘れてはならない。

 中国では芝居に「借古諷今」という働きがある。目の前の相手を直接批判し、貶めるわけにはいかないから、遠い昔を描いた芝居に託して間接的に批判・嘲笑し、あるいは自らの考えを婉曲に相手にぶつけようという手法である。

 そこで時は1945年秋、日本軍敗北直後の中国に移る。

“戦勝国”である中華民国を率いていた蔣介石は日本軍が立ち去った後の新たな中国のかたちを相談すべく、延安の毛沢東に向かって会談を呼びかけた。そこにハーレー在華米大使の仲介が入り、1945年8月末、毛沢東は周恩来ら幕僚を従え蔣介石が本拠としていた重慶に降り立つ。40余日のマラソン交渉の末、同年10月10日の中華民国の建国を祝う双十節に蔣介石は毛沢東との間で合意文書を取り交わす。

調印日に因んで「双十協定」と呼ばれる取り決めでは、来るべき中国は蔣介石の指導下に建設されると定められた。だが相手は毛沢東である。そう簡単に蔣介石の軍門に降るわけがない。

じつは毛沢東は交渉を重ねながらも国共内戦必至を想定し、第一段階としての旧満州制圧の手を打っていた。まさに「談談打打、打打談談」――交渉(「談談」)しながらのドンパチ(「打打」)――である。話し合いは戦場での戦いを有利に展開するため、戦場でのドンパチは話し合いを有利に進めるため。「談」と「打」は戦として一体不離であり、交渉のテーブルもまた戦場だった。これを本来の外交交渉と呼ぶに違いない。

交渉が山場を越えた頃である。毛沢東は蔣介石夫妻を招き、京劇一座の厲家班に命じて「覇王別妃」を演じさせている。一見すると交渉成立を前にした長閑な風景のように受け取れるが、蔣介石を敗れ去る項羽、夫人の宋美齢を虞美人に、そして最後の勝利を手にする劉邦を毛沢東に見立てるなら、毛沢東は蔣介石に向かって「ジタバタしても遅い。これがアンタの将来だ!」と暗示したも同然だった。

かくて舞台中央に満身創痍で仁王立ちする項羽に当てられていたスポット・ライトが消え、舞台が暗転した時の蔣介石夫妻の心境や如何に。項羽が垓下に敗れ去ったと同じように、まさか台湾に落ち延びることになろうとは想像もしなかったと思うのだが。《QED》