【知道中国 2622回】 二四・一・初二
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習288)
1975年6月出版で手許に残るのは『孔丘教育思想批判』(馮天瑜 人民出版社)、『歴史知識読物 李斯』(北京汽車製造廠工人理論組 中華書局)、『唐代傑出法家柳宗元』(柳州拖拉機廠工人理論小組・柳州市博物館写作小組 広西人民出版社)、『論淝水之戦』(李興斌 上海人民出版社)、『批判壊戯文輯』(北京人民機器廠工人理論組 人民文学出版社)、『上海市大学教材 語法 修辞 邏輯 第二分冊 修辞 試用本』(上海師範大学・復旦大学中文系《語法 修辞 邏輯》編者組編 上海人民大学)の6冊である。
このうち、『上海市大学教材 語法 修辞 邏輯 第二分冊 修辞 試用本』を除いた5冊は書名からも容易に想像がつくように共に孔子批判・法家礼賛の論調で徹底している。ことに『孔丘教育思想批判』、『歴史知識読物 李斯』、『唐代傑出法家柳宗元』の3冊を読んでみると、すでに出版された同じような書名の著作の焼き直しに近く、内容に立ち入って論じたところで草臥れるのが関の山。そこで、この3冊はスルーして『論淝水之戦』を考えることとしたい。
『論淝水之戦』が扱う「淝水の戦」とは4世紀末に勃発し、「中国北部全域の統一を推し進め、黄河流域全域に加え長江、漢水の上流に広がる肥沃で実り豊かで広大な地域に叛徒を広げ、法家である王猛の補佐を得ての政治によって社会における生産が一定程度に回復した」前秦王朝と、「長江下流域と五嶺以南の辺縁の地に位置し、北方からの移住者によって黄河流域の先進農業生産技術が導入されたとはいえ、土地は狭く人口は希薄だったことから、物質的には前秦に遥かに及ばない」東晋との間の決戦を指す。
じつは毛沢東は『中国革命戦争的戦略問題』のなかで、淝水の戦を弱軍が強軍に勝利した典型として高く評価している。
動員兵力は東晋8万人対前秦97万で、その差は1対12。だが、「東晋は自らの内部の団結と後方の安定をテコにして、脆弱な経済力と微少な兵力という弱点を補った。これに対し前秦は、自らの内部の不統一と不安定が強大な経済力と質量共に圧倒的に優れた兵力を削いでしまった」。かくして弱国ながら東晋は強大な前秦を破ってしまったのである。
戦争に臨んでの両国最高指導層の資質の違いに関して、『論淝水之戦』は次のように分析し、その勝因を指摘する。
――「東晋朝廷の文武の高級官僚の間には『将相和』の関係が生まれていたことが、前秦の侵攻を打ち砕くうえで重要な意義があった」。「将相和」、つまり武官と文官の間が協力・信頼の強い絆で結ばれていた。対する前秦には「重大な矛盾が生じていた」。最高指導者である符堅の「誤った指令が矛盾を激化させ、加えて符堅は異なった意見には全く耳を貸さず、常に自らが正しいと思い込んだ軍事作戦を主張し、両軍が直面している状況について実情にそぐわない判断を下すのであった。彼は自軍の戦力を過大評価し、敵軍を盲目的に軽んじ、結果として誤った軍事作戦を展開した」――
そこで、『論淝水之戦』が挙げる前秦の敗因を整理してみると、
一:戦争最高指導者の符堅は国を挙げて百万の軍隊を動員した結果、後方に戦力の真空地帯が生まれ、結果的に鮮卑など北方の異民族に侵略の機会を与えてしまった。
二:戦線が延びきり、兵力が分散してしまった。最前線の主力と殿の部隊との間は1千里で、東西両戦線を隔てること1万里。かくして「名目上は百万の軍隊だったが、実際に前線の戦闘に投入できたのは一握りほどの僅かな兵力に過ぎなかった」
三:自己犠牲を厭う忠誠心なき弱将の重用は、「軍事的失敗の重要な原因でもあった」
四:東晋軍の作戦能力を軽視し、軽率に部隊後退を命令し戦線から離脱させ、作戦の主導権を敵軍に与えてしまい、自らを受身の立場に置いてしまった。《QED》