【知道中国 2621回】                      二三・一二・卅一

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習287)

1974年2月22日、毛沢東は訪中したザンビア大統領を前にして、こう説いている。

――アメリカ、ソ連を「第一世界」、日本、ヨーロッパ、カナダ、オーストラリアを「第二世界」、日本を除くアジア、アフリカ全体、ラテンアメリカを「第三世界」と規定し、世界は三分され、「第三世界」に属する中国は、豊かな国や大国には較べられはしないが、貧しい国々と共に在る――

それから2ケ月ほどが過ぎた4月6日、毛沢東の強い推挽で政権中枢に返り咲いた鄧小平副首相(当時)はニューヨークに乗り込み、国連総会に臨んで壇上から「中国は社会主義国であり発展途上国でもある。第三世界に属する中国は第三世界の大多数の国々と同じような苦難の歴史を歩み、同じ問題と任務に立ち向かっている」と、毛沢東の「三分世界論」に基づく対外政策をブチ上げた。

中国は1972年のニクソン訪中を機に、文革外交からの「革命的転舵」を狙い、対外関係の調整に本格的に踏みだした。数年来の過激で無謀な文革外交が引き起こしてしまった外交面での大混乱を改め、対外関係の修復・再開などに努め始めたのである。

あるいは1975年5月に見られたフィリピン、タイ、カンボジア、ガボン、モザンビークなどとの外交関係も「第三世界」との関係構築の一環とみるべきだろう。その内実はともあれ、共産党政権は長期に亘って「第三世界」との付き合いに腐心してきたわけだ。

翻って我が国を考えた場合、岸田首相が内外に向かって「日本に求められているのはG7とグローバルサウスの橋渡しを行い、法の支配を貫徹することだ」と決然と表明できるほどに、我が国の歴代政権が常日頃からきめ細かく「第三世界」の国々との相互信頼関係構築に意を注いできたとは思えない。“付け焼き刃”も度が過ぎるのではないか。

ところで興味深いのが、タイのククリットと毛沢東との会談で交わされたと伝えられる両者の遣り取りである。

毛沢東に向かってククリットが、「アナタと会った外国首脳は帰国後に失脚しているが、私は大丈夫だろうか」と遠慮することなく尋ねた。すると毛沢東は「アナタは大丈夫です」と応じたという。尋ねる方も尋ねる方だが、応える方も応える方だ。共に煮ても焼いても喰えない古タヌキのオヤブンだから、このような会話の応酬がみられるだろう。

じつはニクソン大統領は1972年2月に毛沢東を中南海の私邸に訪れ、米中和解への道筋をつけたわけだが、それから2年半ほどが過ぎた1974年8月、ウォーターゲート事件をキッカケに大統領の座を去らざるをえなかった。

世界中を震撼させたニクソン訪中から半年ほど過ぎた1972年9月、我が田中首相も毛沢東の私邸で親しく歓談し、日中国交回復に大きく舵を切った。だが、それから2年ほどが過ぎた1974年12月、所謂「田中金脈問題」で首相の座を“宿敵”の三木武夫に明け渡さざるをえなかった。

さてククリットである。毛沢東から与えられた「アナタは大丈夫」との“お墨付き”だが、やはり役には立たなかった。それというのも帰国から7ヶ月ほどが過ぎた1976年1月、彼も政権の座から滑り落ちてしまった。加えて1976年の秋にはタイ国軍がクーデターを敢行したことで1973年10月から3年ほど続いた「タイの民主主義時代」に強制的に幕が引かれ、1988年まで軍事政権時代が続くことになってしまうというオマケ付きである。

「タイの民主主義時代」を象徴する存在と見なされるククリットではあったが、やはり「アナタは大丈夫」ではなかったことになる。それだけに、タイ有数の皮肉屋で知られていたククリットにしてみたら、無責任にも“甘言”を弄してヌカ喜びさせた毛沢東に対し、イヤミの一つも浴びせ掛けてやりたかった・・・のではなかったろうか。《QED》