【知道中国 2620回】                      二三・一二・念九

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習286)

やはり毛沢東革命の担い手は暴力(槍杆子=テッポウ)とメディア(筆杆子=文芸・芸能)であったことを、肝に銘じておきたいものだ。

以下、1975年5月分の発行部数を示しておく。

『秦始皇帝的故事』(上海人民出版社):10万部

『曹操的故事』(上海人民出版社):15万部

『中国近代簡史』(上海人民出版社):20万部 

1975年6月に入ると、鄧小平の動きが活発化する。もちろん、毛沢東から党中央における日常工作を正式に任されてのことではあるが。

3日、鄧小平は政治局会議を主宰し、四人組周辺の活動を批判する。これに対し王洪文は自己批判を行い、江青と張春橋は書面審査に受けることになる。24日から翌7月5日にかけて中共中央軍事委員会拡大会議が開かれ、解放軍の編成問題につき討議が行われた。その際、軍長老の葉剣英が「目下、ある人物が至る所に書簡を送りつけ実働部隊の思想を混乱させている」と語り、解放軍に対する四人組の工作を暗に批判した。

このような動きに対し、さすがの江青も気弱になったのか、28日には毛沢東と在北京の政治局員に「これまでの政治局会議においての同志による批判、助言により大いに心を揺さぶられた」との書簡を送り、“殊勝な姿勢”をみせるのであった。

7日から12日までフィリピンのマルコス大統領一家が、30日から翌7月6日まではタイのククリット首相が訪中している。

訪中初日にマルコス大統領は入院中の周恩来を訪問し、9日には中国とフィリピンの間で大使級の外交関係が打ち立てられた。

1975年5月に訪中した外国首脳はマルコスとククリットの両人以外はガンビアの大統領(11~17日)、カンボジア共産党のポル・ポト総書記(21日、毛沢東と会見)、ガボンの大統領(27~29日)である。25日にはモザンビークと大使級外交関係を樹立するなど、第三世界との外交関係構築が顕著に見られるようになった。

ウクライナ戦争勃発以降、国際政治における新興勢力であり新しいプレーヤーとして俄に注目されることになった「グローバルサウス」との外交関係に腐心している。

ここで、いつもながら敢えて横道に逸れ、グローバルサウスについて考えてみたい。

今年のG7広島サミット目前、岸田首相はエジプト、ガーナ、ケニア、モザンビークのアフリカ主要4カ国(4月29日発、5月5日帰着)を訪問し、5月4日には最終目的地であるモザンビークのマプトでの内外記者会見に臨み、一連の外交を5月19日開幕の先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)に関連づけ、「日本に求められているのはG7とグローバルサウスの橋渡しを行い、法の支配を貫徹することだ」と、大見得を切った。

岸田首相は首相就任前、政治家としての自らの資質の最上位に「聞く力」を挙げていたが、それだけで通用するほど国際社会は甘くはないはず。「考える力」と「決める力」とが一体化してこその外交力と言うもの。「聞く力」だけでは怯懦に近く、「聞く力」と「考える力」のないままに「決める力」を振り回すに至っては短慮でしかない。敢えて言うなら、岸田外交は怯懦と短慮の二重奏に過ぎないのではないか。もちろん内政も。

考えてみれば、怯懦と短慮が基調をなしていた今春の外遊だが、訪問先のアフリカ4カ国に約束したと伝えられる1700億円程度の“はした金”では、日本が「G7とグローバルサウスの橋渡し」を務めることは極めて難しいだろうに。

ここで敢えて指摘しておきたいのが、文革中に毛沢東が唱えた「三分世界論」――なぜかグローバルサウスの先取りに見えるのだが――である。《QED》