【知道中国 2618回】                      二三・一二・念五

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習284)

全員を返り討ちに斬って捨て、「自業自得だ」と呂の家を後に逃走の道を東へ。中牟県の県城で逮捕され県知事の前に引き出されるが、知事側近の知恵者のお陰で釈放された。

 だが、中国人が愛読して止まない『三国演義』を種本にした京劇「捉放曹」における曹操は大違い。中牟県で逮捕されたが董卓の悪行を憎む知事の陳宮が曹操の縄を解き、官位を捨て曹操と行動を共にする。呂伯奢の家に一夜の宿を願い出るところは同じだが、ここからの展開は全く別だ。

在宅中の呂に大歓待される。酒を切らしているからと、馬で街に買出しに出かける。疲れを癒すべく部屋に案内された曹操と陳宮。ウトウトしている曹操の耳に、チャリンチャリンと刃と刃とが触れ合う音。続いて「殺せ、殺せ」の声。殺気を感じた曹操は刀を抜き部屋から飛び出し、呂の一家全員を一気呵成に切り捨てた。改めて斬殺現場をみると、殺されたブタと包丁が。家族は呂に命じられて歓迎宴の準備をしていたところだったのだ。

 慌てる曹操。「先ずはこの場を立ち去るべし」と陳宮に急かされて逃げ出す。しばらく行くと、向こうから酒を手にした呂伯奢がやって来て、「なぜに道を急がれるのか」と。「じつは急用を思い立ち」と応えながら、曹操はすれ違いざまに呂伯奢に刃を振り下ろす。呂の死体を前に「無益な殺生を」と咎める陳宮に向かって、曹操は「寧教我負天下人、不教天下人来負我(俺は天下に背いても、天下を俺に背かせない)」と応える。

舞台で曹操役者がこの台詞を口にして見得を切ると、満座の客は沸きに沸き返る。京劇名狂言の見せ場。誰もが悪の、つまりめっぽう恐くて破天荒に強い曹操が好きなのである。

智謀・知略の孔明に対し奸智・粗暴イメージの強い曹操だが、「寧教我負天下人、不教天下人来負我」の15文字に我を貫き徹そうという強い意志を感ずる。この台詞を体現させた者こそが中国人にとっての真の権力者に違いない。文革をはじめようとした毛沢東も、改革・開放に大転換しようと考えた鄧小平も、もちろん習近平も、その脳裏には常に曹操の15文字が浮かんでいるのではないか。

中国人が慣れ親しんできた曹操は『曹操的故事』が説く戦上手の法治主義者ではなく、「寧教我負天下人、不教天下人来負我」の一生を送った超自己チューの元祖に違いない。

『中国近代簡史』(復旦大学歴史系中国近代史教研組編著 上海人民出版社)と『写作漫談』(復旦大学・上海師大中文系《写作漫談》編写組 上海人民出版社)は、共に農山村に送り込まれた都市の大学生や高校生が労働の傍らに「マルクス・レーニン主義、毛沢東思想の指導のもとに哲学、社会科学、文学、自然科学に関する基本知識と実用的な農業技術知識など」を学習するために編集された「青年自学叢書」の1冊である。

『中国近代簡史』は「簡史」とはいうものの、400頁近い大部であるだけに、さすがに内容は豊富だ。1840年のアヘン戦争から1910年代末の清朝復辟運動までの歩みをマルクスやレーニン、毛沢東の著作からの引用を織り交ぜながら詳説し、近代史における理非曲直、いわば共産党の歴史認識を明らかにしようと努める。その主張の一端を見ておくと、

たとえばアヘン戦争に関しては、次のように記されている。

「犯罪であるアヘン貿易」を画策する「凶悪なる外国侵略者を前にして、戦いか、しからずんば降伏か。戦争が始まるや、中国人民は直ちに清朝とは全く異なった道を選ぶのであった。『我らが中華民族は自らの敵に対し断固として血戦を貫徹する気概を持つ』とは偉大なる領袖である毛主席の言葉である」

「かくして帝国主義とその走狗に屈せずに頑強な反抗精神を発揮し、人民は戦いに勝利した。『官兵、恃むに足らず』『鬼子(がいこくやろう)、恐れるに足らず』である。敢然と戦いさえすれば必ずや外国の侵略者を打破できることを、歴史が教えている」《QED》