【知道中国 2617回】                      二三・一二・念三

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習283)

13歳で王位に就いた始皇帝は奴隷所有階級出身の重臣を退け、「韓非子が説く法治理論を十二分に重視し、法家を周辺に置いて重用し」たうえで政治を行った。全国を統一した後、中央集権政府によって「引き続き農業を重んじ商業を抑える政策を進め、辺境を開発し、水利事業を興し、農業生産を奨励し、工商奴隷所有勢力に徹底して打撃を与えた」。同時に度量衡・貨幣制度・文字を全国的に統一し、「統一国家の基礎を強固にし、各地区・各民族間の経済や文化の発展を促した」。ところが、時代に取り残された奴隷所有階級と儒家が結託し、様々な策動を試みるのであった。

始皇帝の側近に紛れ込んで「古代の制度は変えることが出来ない。郡県制度を廃して封建制に復すなら、千万代の後まで秦は栄えます」と吹聴するばかりか、都の咸陽で密かに私学を経営し反政府活動を企てる不届き者もいたほどだ。

そこで始皇帝は「一、私学開設を禁止。二、国立図書館を除き、個人による儒教関連書籍の所有禁止。三、儒教関連書籍を使って政府を批判する者は斬首」との法令を下す。かくして国立図書館所蔵以外の個人所有の儒教関連反政府書籍が摘発され焼却処分となる。

だが「これで認識における闘争が幕を閉じたわけではない。革命である以上、一握りの反動儒家の反抗は続く」。彼らは地下に潜行し徒党を組み、秘かに武装蜂起を企てる。そこで彼らを逮捕することになるが、都への護送途中、沿道から「こいつらゴキブリを埋めてしまえ」「あの世の孔子のところに送り届けてやれ」などと怒声が飛び交う始末だ。

だから焚書は後世に広く伝えられているような学問・言論の弾圧ではなく、坑儒は反動儒家に対する庶民の憤怒に従ったものであり、決して人権を否定したものではない。

『始皇帝的故事』は、焚書坑儒を奴隷制社会への回帰を企む反動勢力に対する「当時の人民の賛成と支持を受けた」始皇帝の正しい措置であり、社会を前進させるうえでの大いなる功績と位置づける。だから「広範な人民の要求と願望、前進しようとする歴史の趨勢に合致」しない学問・思想を存在させてはならないばかりか、自らに不都合な学問・思想を徹底弾圧することは正当な行為だというリクツが成り立ってしまうことになるわけだ。

どうにも納得できない話だが、先に進んで『曹操的故事』に転じたい。

「法家の立場に立つ人物の歴史上の働きを正しく評価し、孔孟の道と尊儒反法の思潮に対する批判を深化させる」という「重要な戦闘任務」を帯びて出版されただけに、『曹操的故事』では、曹操の生涯を儒教と戦った徹底した法治主義者として描き出し、「紀元二二〇年正月、法家の代表的人物である66歳の曹操は、中国統一の願望を完成させることなく、法治を励行した生涯を洛陽で卒えた」と結んだとしても、強ち無理からぬこと。

 だが反儒家で法家、或は厳格な法治に努めた曹操といったイメージを無理やり作り上げようとする余り、従来から語り継がれてきた曹操の物語と辻褄の合わなくなってしまう。

たとえば、強大な権力を掌握した董卓屁の反抗に失敗し、その追手から逃れるべく密かに洛陽を後にする曹操について、『曹操的故事』では次のように語っている。

洛陽から成皋に辿り着いた曹操が一夜の宿を借りようと友人の呂伯奢を訪ねる。不在の呂に代わって、酒と賭博に興じていたゴロツキの息子と仲間が応対することになる。曹操の膨らんだ財布、素晴らしい馬に目が眩んだうえに曹操の首に莫大な懸賞金が掛けられていることを知っていた彼らは、曹操を殺してカネと馬を奪い、その後で董卓からご褒美をせしめようと衆議一決する。

追尾は厳しい。逃避行に疲れて果てグッスリと寝入った曹操の耳に、愛馬の嘶きが。直ちに厩に急ぐ。馬泥棒だ。一喝する曹操に向かって、「お尋ね者を捕まえるまで」と何本もの刃か向けられる。だが百戦錬磨の曹操である。見事に窮地を脱したのだ。《QED》