【知道中国 1063回】 一四・四・仲一
――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(中野6)
「中国の旅」(中野重治『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年)
まさに反右派闘争は、毛沢東=共産党にとっては不満分子を国内から一掃し、独裁権力を確立するため。一方の民主諸党派や学生の立場に立つなら、毛沢東=共産党の独裁を阻止し、建国当初に中華人民共和国が達成すべき理念として掲げた「独立、民主、平和、統一、富強」を勝ち取るため――共に死力を尽くした「你死我活(生きるか死ぬか)」の激闘だったのだ。結果は、毛沢東=共産党の勝利に終わった。
反右派闘争という政治「運動は次から次へと起こされるに伴い、攻撃の対象はしだいに広がり、断罪の方法はどんどん簡便になっていった。胡風反革命集団粛清運動では、個人間の往復書簡や本人の日記に基づいて断罪されたが、反右派闘争では、大鳴大放集会での発言や日常の言動が罪の証拠とされた。そのうえ、他人の告発・摘発・批判に基づいて断罪されることさえあった。運動の攻撃対象も、文化学術界にくまなく広がっただけでなく、中学高校や小学校の教師を含む教育界全体に及んだ。とりわけ、中学高校の教師で右派分子にされたものが多かった」
いやそれだけではない。「大学生の間でも、反右派闘争が広範に繰り広げられて、二〇歳そこそこの大学一、二年生が多数右派分子とされ、生涯にわたって辛い思いを強いられ、その家族までも巻き添えにされることになった」(前掲『歴史激流 楊寛自伝』)のである。
ここで『証照 中国1949-1966 共和国特殊年代的紙上歴史』(許善斌 華文出版社 2007年)に収められた貴重な資料から、反右派闘争の実態の一端を一瞥しておきたい。
先ず「民盟北京市委会反右派批判大会入場券」と印刷されたチケットである。民盟とは中国民主同盟の略称で、共産党に協力し建国に尽力した民主諸党派の筆頭で、それゆえに建国時の約束を反故にして独裁に突き進む毛沢東=共産党を批判した。同同盟の副主席だった儲安平は毛沢東=共産党が画策する独裁――国家の上に党を置き、社会の隅々にまで党の絶対無謬性を押し付ける政治を「党天下」と批判した。そこで反右派闘争において儲安平は批判大会に引きずれ出され、晒し者にされ、同僚や部下から批判されたわけだ。
この「入場券必携・時間厳守」と特記された入場券の記載から、会場は北京の全国政治協商会議礼堂で、批判大会は1957年10月20日の午前8時半と午後1時半の2回行われたことが判る。壇上に引きずり上げられうな垂れた儲安平を、上司や同僚、さらに部下が次々に罵倒する。同情する素振りでも見せようものなら、その人物も右派として断罪された。そこで親友であったとしても、いや親友であればあるほど、あることないことデッチあげ、儲安平を批判・罵倒・嘲笑した。それもこれも我が身を守るため。
次の資料は「奨状」だ。中央上部に赤旗をバックに毛沢東の横顔が印刷されて、その下には「李建群同志は反右派闘争において明確に党と社会主義を守る立場に立ち、工作において突出した成績を挙げた。特に本状を与え、以って奨励する。1958年元月15日」と記されている。つまり、右派と断罪された人物を過激に批判・罵倒・嘲笑した「李建群同志」を大いに褒め称えたということだろう。
残る1つは当時の800名ほどの文芸関係者の個人情報を記した名簿の「中華全国文学工作者協会会員表(1959年版)」である。反右派闘争に悪乗りした郭沫若、なんとか生き抜いた茅盾や巴金などが収められているが、末尾の16頁は「右派専頁」とされ、そこには反右派闘争で批判され仕事を奪われた文芸関係者が記されている。
いわば罪をデッチあげる形で始まった闘争は悲惨な結末を迎え、右派と断罪され、政治的冤罪を晴らす機会すら与えられないままに人生を送らざるを得なかった人々、その家族の苦痛を考えるなら、「隣の家の夫婦喧嘩」にたとえる中野の無神経ぶりには驚愕だ。《QED》