【知道中国 2614回】                      二三・一二・仲七

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習280)

「偉大なる批林批孔運動において、我ら職場の労働者は党の呼び掛けに応じ、マルクス・レーニンを学び、法家を論じ、孔孟を批判し、革命を進めてきた」。そこで職場の理論小組は、戦国期の思想家で「性悪説」を唱えた荀子が「自然界は堯のような聖人の賢明な働きで動いているわけでも、桀のような稀代の悪逆非道によって消滅するわけではなく、一定の規律に従って運行されていること」を説く「天論」を読み解いてみた。その結果として、『《荀子・天論》評注』が出版されたことになった。

だが、これまでみてきたこの種の古典解読と同じで、どこまで当の労働者によってなされたものなのか。「我ら職場の労働者」の古典読解力に敢えて疑義を差し挟む非礼は承知しているものの、やはり何回読み直しても疑問は消えそうにない。

巻頭で「我々のマルクス主義、毛沢東思想に対する学習は不十分であり、古代法家の著作に接することも、自分で本を書くことも初めてであり、誤りは免れない」と“告白”はしているものの、やはり四人組系の筆杆子(ペンの茶坊主)の手が加わっているとみるのが常識だろう。

かりに「我ら職場の労働者」が自分たちで主体的に『《荀子・天論》評注』を著すことができるような知性の持ち主であったとするなら、文革という野蛮極まりなく非生産的で社会を破壊に導きかねない政治遊戯を10年近くも繰り返す愚を犯させない、文革の被害を小さくするような、あるいは文革に真っ向から異を唱えるような行動を取るはず、と思うのだが、しょせんナイモノネダリだろうが。

とどのつまり「我ら職場の労働者」も政治の過激で残酷な潮流に棹さすことなどするわけはない。なぜか。

ここで思い出されるのが、天安門事件で「反革命宣伝煽動罪で懲役四年」の実刑を喰らった廖亦武が綴った『銃弾とアヘン』(白水社 2019年)に綴られた証言の数々である。証言者は廖亦武と同じく天安門事件でいわれなき罪によって強引に刑務所に放り込まれ、人生の大半を失ったような市井の人々だ。彼らは事件に対する胸の内を思いのままに語っている。以下、深く考えさせられた呟きを記しておきたい。

「いつまでも毛沢東の亡霊がつきまとう限り、鄧小平の強力な支配を取り除かない限り、共産党の統治である限り、反抗の帰結はすなわち流血なのだ」

 「(刑務所に)入ってわずか半年で、牛のような屈強な体つきのおれが、飢えで一〇キロあまり肉が削げ、残るは骸骨だけになった」

 「(庶民は)死んでも死にきれない。貧しい庶民ほど、死なないと政府はわかっているんだ。死んだところで、何だっていうんだ? 〔中略〕雑居房は狭いし、王八(ばか野郎)は多いし、皮膚と皮膚がくっついて、臭いケツとケツがくっついているから、一人が病気になるとあっというま間にみんな病気になる」

「(刑期を終えた後の不遇を)おれも恨まないよ。こういうことになったのはほかでもなく、改革開放で利益と欲に目がくらみ、魂を売って道義を忘れ、みんなが腐敗に憧れる新時代に乗った中国人のおれたちなんだもの」

 「絶対多数の中国人は、一生騙されて、声を呑み込んで我慢し、妻を寝取られた男みたいに暮らしている」

 「捕まったことがなかったから、プロレタリア独裁がどれほどすごいかわからなかったんだ」

 廖亦武は憤怒と恐怖のままに「共産党は本当にあっという間に人を殺す」と記す。だからこそ、「我ら職場の労働者は党の呼び掛けに応じ」ざるをえなくなるのか。《QED》