【知道中国 2612回】 二三・一二・仲三
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習278)
ムリを承知で「手紙と電報を書くうえでの心得」の中国語音をカタカナ標記してみると、
「ゴウミンシュシン・チイシェンチン、ウーフースーハイ・シンリェンシン。カイトウシエンバー・チョンフーシエ、チョンウエンシューシュイ・ツォンツーチン、チエウェイジーイー・コンミエンレイ、シンミンユエリー・シエフェンミン。ルーヨウジーシ・パイディエンパオ、イェンチェンイーミン・シーティンチョン」
下線で示したように「信(シン)」「情(チン)」「心(シン)」「清(チン)」「明(ミン)」「正(チョン)」と「ン」で揃えてある。だから調子がよくて覚え易い。
たしかに一見したところでは“革命的”とは思われるが、どの例文にも溢れ返る毛沢東や共産党に対する感謝・讃仰の意を表す文字を除くと、極めて形式的ではある。つまり古からら伝わる文章作法における歴史と伝統が色濃く反映されている。伝統的修辞法から抜け出せない。敢えて“革命的四六駢儷体”と表現したいところだ。なんのことはない彼らは頑迷固陋で伝統的な文章形式を墨守しているにすぎない。
形は内容を規定し、形式は思考方法を導くもの。漢字を使っている限り、漢字が醸しだす形に嵌った古色蒼然とした表現形式、つまりは発想から解放されることはなさそうだ。古来、彼らは漢字という四角四面な文字と音から逃れられることはできなかった。いや漢字とその音に捉われ続けてきた。こう考えてもいいだろう。
とどのつまり彼らは漢字という文字の《形と音の囚人》である。漢字を使ってのコミュニケーションを継続しているかぎり、彼らは漢族であり続ける。その意味で言うなら、1949年の建国直後に起こった「漢字を使うな。ローマ字表記にせよ」との主張は一見すれば突拍子もないようだが、その実、ゼッタイにカクメイテキに正しかったと思える。
あの時、漢字を廃止しローマ字表記にしていたら、中国人は現在のように夜郎自大で尊大極まりない態度をとることはなかったのではなかろうか。淡い期待に過ぎないし、今となっては手遅れであることは重々承知ではあるが、つい、こんな考えに立ち至ってしまう。
『怎様糾正病句』は「病句」、つまり単語の使い方や修辞法の誤りを徹底して正す文章作法に関する参考書と思ったのだが、巻頭に掲げられた「学校における行いの一切は学ぶ者の考えを変換させるためにある」で始まる次の一文を目にしたら、その考えが間違いであることが分かった。やはり共産党政権にとって学校は洗脳の場だったのだ。
「『学校における行いの一切は学ぶ者の考えを変換させるためにある』。我々は思想政治工作をなによりも最優先にすべきだ。学ぶ者をマルクス・レーニン主義と毛沢東思想によって教育し、彼らの階級闘争・路線闘争・プロレタリ階級独裁下で革命を継続させる覚悟を高めなければならない。中国語教育、あるいは作文授業において、我々は先ず学ぶ者が表現しようとする思想に注意し、〔中略〕思想内容に間違いのある語句を見つけたら、一貫して真摯に対応しなければならない。
プロレタリア階級の政治を大前提に掲げ、細部にまで心を巡らせた思想工作を進め、学ぶ者をして思想認識を高め、思想上の転化を促すよう全力を尽くさなければならない」
文章作法に関する参考書とは思えないほどに政治や思想、あるいは革命に傾いてはいるが、とどのつまり学校教育とは学ぶ者のノー味噌を「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」に全面的に入れ替え、永久革命に邁進させるようにする。だから学校は洗脳工場であるとの発想に立って『怎様糾正病句』が出版されたとしか考えられない。
たとえば「我々の頭脳は毛沢東思想で武装されている」を表そうとするなら、「我們是用毛沢東思想武装起来的頭脳」は誤りであり、「我們的頭脳是用毛沢東思想武装起来的」と改めることで、「我々の頭脳は毛沢東思想で武装され」ることになるらしい。《QED》