【知道中国 2611回】 二三・一二・仲一
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習277)
周恩来が毛沢東に送った書簡なるものの真偽が不明であり、あるいはタメにする「小道消息(都市伝説)」の類とも思えるが、いずれにせよ、こういった情報が伝わるということは、毛沢東と周恩来の間だけではなく、どうやら毛沢東と四人組の間も、より大きく捉えるなら毛沢東と国民、共産党と国民、文革と国民の間も抜き差しならぬ段階に差し掛かりつつあった、ということではなかろうか。
1975年3月出版で手持ちは『歴史知識読物 歴史上労働人民反孔闘争史話』(余志森 中華書局)、『日常応用文』(学群編写 上海人民出版社)、『怎様糾正病句』(楊岱励 上海人民出版社)の3冊である。
『歴史知識読物 歴史上労働人民反孔闘争史話』は孔子と同時代に生き、孔子を「盗丘(丘の盗人ヤロー*)」と面罵した柳下跖から19世紀半ばに太平天国を打ち立て清朝に大打撃を与えた洪秀全まで、歴代の暴動・叛乱を「労働人民による反孔闘争」と捉え直し、正史などの史書の記述を「造反有理」の大原則に従って巧みに援用しながら、“見てきたような史話”に仕上げてある。(*孔子は諱の「丘」に因んで孔丘とも呼ばれる)
だが、これといって新しい史実が加えられているわけでもなく、批林批孔闘争で繰り返されてきたヘリクツの類から一歩も出るものではない。だいいち工夫も芸もなさすぎる。だから、『歴史知識読物 歴史上労働人民反孔闘争史話』を“熟読玩味”したところで、役に立つとは思えず、とどのつまりは時間のムダでしかない。
費用対効果を考えるなら、批林批孔闘争関連本の出版はトットと止めるが得策を思うのだが、やはり毛沢東が「打ち方止め!」を口にしない限り、闘争は着地点が見つからないままにダラダラと続けるしかなかったとも考えられる。
『日常応用文』(学群編写 上海人民出版社)だが、手紙、電報、事務的文章、メモ、議事録、通知、事務連絡、祝い事、契約、計画、報告、日記、議事録、大字報、春聯など誰もが日常に接する文章の書き方の“伝授”を狙ったハウ・ツーもの。だが、そうであったとしても、当然ながら時代環境からして毛沢東思想からの逸脱は断じて許されない。
一例を黒龍江省に下放された息子に宛てた父親の手紙に見ると、次のような手本が示されている。もちろん父親は「貧農下層中農と共に日々大地と戦い、彼らからの再教育を虚心に受けている」と、息子を固く信じ切っているわけだが。
「息子よ、お前たちの世代は実に幸せだ。父は旧社会にあって政治的には圧迫され、経済的には搾取を受け、牛馬のような生活を強いられた。だが今日、党と毛主席のお陰で国家の主となったのだ。いまの我が身は共産党を忘れない。いまの幸せは全て毛主席から授かったもの。父は働きながらも世界に目を広げ、革命の為に全力を尽くしたい。お前が毛主席の教えをしっかりと記憶し、驕慢にならず革命の大道を胸を張って進んでいくことを、父も確信する」
中国全土が、こんなリッパな父親と息子に溢れかえっていたら、さぞや素晴らしい理想的な共産主義大国に成長していただろう。考えただけでも、空恐ろしく噴飯モノだが。
冒頭に示された「手紙と電報を書くうえでの心得」は「革命書信寄深情、五湖四海心連心。開頭先把称呼写、正文叙述層次清、結尾致意共勉励、姓名、月日写分明。若有急事拍電報、言簡意明細訂正」と、シッカリと七言八句で、しかも調子よく韻を踏んでいる。
これを原文の雰囲気を可能な限り生かせるように訳してみると、「革命の書信(たより)は深情(おもい)を伝え、五湖四海(せかい)を心で結びます。最初に正しい宛名を記し、続いて順序正しく要件伝え、結びは互いに励まし合って、名前と月日はしっかりと。急ぎの用事は電報で、字数少なく達意を目指せ」といったところか。《QED》