【知道中国 2606回】 二三・一一・念九
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習271)
政治環境の整理整頓に向けて動き出した1つの象徴が、全国人民代表大会(全人代)の開催ではなかったか。本来は毎年開催のはずが、文革混乱の煽りを喰らって、この間は1回も開かれず。かくて開催は10年ぶりとなったわけだ。
全人代(1月13~18日)の公報は、『中華人民共和国第四届全国人民代表大会 第一次会議文献匯編』(生活・読書・新知三聯書店香港分店)として出版されている。
4つの現代化を柱とする「政府工作報告」を周恩来が、「中国共産党は全中国人民の領導の核心」「全国人民代表大会は中国共産党領導下の最高国家権力機関」を軸とする「憲法改正に関する報告」を四人組の張春橋が行ったこと。さらには同大会の主要人事、国務院(内閣)の閣僚の顔ぶれからして、同大会が周恩来・鄧小平を中核とする反四人組勢力と四人組との“妥協の産物”であり、翌76年秋に一種の宮廷クーデターによって権力の座から追い落とされたことを考えるなら、四人組凋落の前兆とも思える。総体的には、文革の終焉を予感させる大会であった。
そのことを、以下に示す「政府報告に関する決議」が物語っているだろう。
「第三期全人代(1965~70年)以来、国務院は毛主席を首(かしら)とする中国共産党中央委員会の領導の下、毛主席のプロレタリア文化大革命路線の指導の下、プロレタリア文化大革命と目下全国で展開されている批林批孔運動を経て、内外における諸工作に巨大な成果を得た。さらなる20余年を重ねるなかで、今世紀内に我が国を近代化された社会主義強国として必ずや建設できることを、大会参加者は深く信じる」
この短い文面に埋め込まれているのは、毛沢東の権威を後ろ盾にする一方で、文革と批林批孔運動の“成果”を示すことで四人組に目くらましを喰らわせながら、「さらなる20余年」の間に「近代化された社会主義強国」の建設を目指そうという壮大な野望――恰もそれは鄧小平による対外開放を予感させる――ではなかろうか。
こう考えると、周恩来の死(76年1月)、毛沢東の死(76年9月)、四人組逮捕(76年10月)に向けて、権力を巡っての水面下での鬩ぎ合いは冷たい火花を迸らせながら冷酷非情になっていく予感がしてくる。
1975年2月に入っても、相変わらず批林批孔運動は続く。
1日、『紅旗』に「我が党と林彪の間の孔子に対する反対(反孔)か尊敬(尊孔)を巡っての戦いの決着は依然としてついているわけではない」を趣旨とする「広泛深入開展批林批孔的闘争(広く深く批林批孔闘争を展開せよ)」が掲載された。
2日、『人民日報』は社説「把批林批孔的闘争進行徹底(批林批孔的闘争を徹底的に推し進めよ)」で、「各段階の指導幹部は闘争の最前列に立ち、批林批孔を第一級の重要事として論議し、事態を把握せよ」と訴えた。
3日から10日にかけ、四人組や康生が批林批孔運動の徹底を狙ったと思しき動きをみせる。これに不快感を抱いたからだろう。15日になると毛沢東が「過度に抽象的で一方的な議論の進め方は、逆に批林批孔の効果を台無しにしてしまう」と苦言を呈している。
病躯の周恩来の激務は続く。9日は20時間、10日の起床後は日を跨いで12日早朝の4時過ぎまで。毛沢東の「死ぬまで働け」との冷酷な仕打ち。周恩来の「死ぬまで働いてやる」との毛沢東に対する意地。それとも「オレがやらねば国が滅びる」との焦りだろうか。
ここで興味深いのが、15日に毛沢東が「逆に批林批孔の効果を台無しにしてしまう」と危惧した批林批孔運動における「過度に抽象的で一方的な議論」だ。1975年2月に『《論語》選批』(上海人民出版社 1975年)が出版されているが、たしかに毛沢東の“苦言”のままに「過度に抽象的で一方的な議論」であり、議論はカラ回りするばかり。《QED》