【知道中国 2598回】 二三・一一・仲四
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習264)
「官吏に対する弾劾制度、行政管理制度、交通規則、図書閲覧規定など細則までよく完備した制度を作る力量があると同時に、一切の規則、条例、制度を破壊し、あるいは無視し、ごまかし、弄び、操ることもできる」ことが日常茶飯に行われているのも、その種の振る舞いが「中国の特色を持つ倫理道徳」に裏打ちされているからだろう。
確かに「中国の特色を持つ」が付けば完全無欠で絶対無敵。ナニが来ても怖くはない。やはり「中国の特色を持つ」との接頭語は、その昔に「百戦百勝」と讃えられた毛沢東思想を遙かに凌いで余りあるほどに「百戦百勝」の偉力を秘めている。こう考えるなら、「中国の特色」とは「チャイナ・ファースト」の別の表現と言いたいくらいだ。
ここらで林語堂を切り上げて本題に戻り、1974年12月に進みたい。
毛沢東の甥(弟・毛沢民の長男)で、文革を機に遼寧省革命委員会副主任(73年)、瀋陽空軍部隊政治委員・党委第一書記(74年)と東北地域で影響力を強めつつあった毛遠新が四人組を背景に東北部で蠢き始める。
4日、上海民兵指揮部が民兵の組織化を明らかにする。いよいよ四人組が上海の軍事拠点化に向けて動き出したようだ。
18日、入院中の周恩来が鄧小平を迎え、この年最後の2人だけの会談を行った。おそらく四人組への対応を話し合ったのではないだろうか。
23日、周恩来は王洪文と共に飛行機で長沙に向かい、毛沢東に対し来る第四回全人代の準備状況を報告。その際、毛沢東は鄧小平の名を挙げて「得難い人材であり、政治思想は強固だ」と語り、王の手を握りながら「四人で徒党を組んではならない。なにより団結だ。四人で蜷局を巻くのはダメだ!」と言い聞かせたとか。
24日、毛沢東は再び王を呼び寄せて、「何回もオマエに言っておいたが、仲間内だけで物事を進めてはイカン。とどのつまりオマエは聞く耳を持たんようだな。今回、長沙に来たからには、3日ほど逗留して反省の弁を書き記してワシの検査を受けるんだな」と。
一方、周恩来に向かって「四人組はプロレタリア独裁の真意を理解していないから、いずれ修正主義に変質しかねない。これを全国に周知させねばならない」と説く一方、安定団結と国民経済重視を指示した。事実上の周恩来支持表明だろう。
こう見ると、さすがの毛沢東も四人組の身勝手極まりない振る舞いに嫌気がさし、自らの軸足を周恩来と鄧小平に移し始めたとも考えられる。毛沢東の“忠言”を聞かなくなった四人組陣営に毛沢東と血の繋がった毛遠新と言う新しいスターが登場したわけだが、こうなると中国における権力の重心がどこにあるのか。判然としなくなる。
どうやら周恩来と鄧小平は権力基盤の覚束ない毛沢東の“お墨付き”に頼るしかなく、四人組は毛沢東の“威令”を半ば無視する。権力の隙間で毛遠新が跳梁跋扈するなど、文革を継続させる目的はなんなのか。先行きは愈々もって混沌としてきたようだ。
とはいえ、『読一点法家著作 三』(北京大学哲学系工農兵学員編 人民教育出版社)、『我国農民反孔闘争史話』(天津市宝坻県小靳荘大隊理論小組 人民出版社)、『批判孔孟的反動文芸観』(復旦大学中文系曽栄 上海人民出版社)、『曹操詩文選読』(北京内燃機総廠工人理論組・北京大学中文系聞衆注訳 人民出版社)、『柳宗元詩文選注』(上海師範大学中文系《柳宗元詩文選註》注釈組 上海人民出版社)など、相変わらず批林批孔と法家推奨を主張する出版は続く。
曹操は「三国時代における法家の傑出した代表」で、柳宗元は「唐代中期における著名な法家で傑出した文学者」と、共に法家思想の持ち主だと強く推奨している。だが、たとえそうであったにせよ、それを国民が素直に受け入れるはずもないだろうに。《QED》