【知道中国 2597回】                      二三・一一・仲二

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習263)

鄧小平率いる共産党独裁政権が先頭に立って市場経済を推し進めるというわけだから、やはりスンナリとは納得できない。常識的には共産党独裁政権と市場経済では水とアブラの関係だから、そのうち大破綻は必至だと、誰もが考えたに違いない。

だが、それはあらゆる意味で“杞憂”だった。共産党政権が自らが強引に推し進めだした極めてキナ臭い市場レーニン主義を「中国の特色を持つ市場経済」と言い換えることで、対外開放が大きな破綻をみせることもなく回転し始めたから、やはり不思議だ。

こういった状況を目の当たりにしたアメリカを軸にした西側世界は、「中国は経済発展することで民度も向上し、共産党に対する信頼が揺らぎだし、やがて民主化にむかう」と大アマの大勘違い、あるいは大誤解をしてしまった。

「中国の特色を持つ市場経済」の重点は「中国の特色を持つ」にありこそすれ、「市場経済」にはなかった、ということだろう。だとするなら、「中国の特色を持つ」は市場レーニン主義を韜晦するためのゴマカシであり、誤解を恐れずに踏み込んで表現するならば、鄧小平主導の共産党政権による“世界史的な特殊サギ”と言えないこともないだろう。

それにしても「中国の特色を持つ」とは誰が発明したかは不明だが(あるいは鄧小平周辺だろうか)、なんとも便利至極でステキな言葉だ。思い出せば段ボール入りの包子(肉まん)だって「中国の特色を持つ包子」だろう。髪の毛を原材料にした醤油も「中国の特色を持つ醤油」であり、我が国の車両技術を総結集して造り上げた新幹線をパクった中国版高速車両だって「中国の特色を持つ高速車両」と胸を張り誇り高く宣言されたら、やはり沈黙するしかない。もうこうなったら、正々堂々・天下晴れての開き直りだ。マケマス。

ここで毎度おなじみの林語堂だが、「民族としての中国人の偉大さ」についての次のような卓説を思い出した。

林語堂に拠れば中国人は「勧善懲悪の基本原則に基づき至高の法典を制定する力量を持つと同時に、自己の制定した法律や法廷を信じぬこともでき」るし、「煩雑な礼節を制定する力量があると同時に、これを人生の一大ジョークとみなすこともできる」。「罪悪を糾弾する力量があると同時に、罪悪に対していささかも心を動かさず、何とも思わぬことすらできる」らしい。

さらにさらに、「革命運動を起こす力量があると同時に、妥協精神に富み、以前反対していた体制に逆戻りすることもできる」。「官吏に対する弾劾制度、行政管理制度、交通規則、図書閲覧規定など細則までよく完備した制度を作る力量があると同時に、一切の規則、条例、制度を破壊し、あるいは無視し、ごまかし、弄び、操ることもできる」とか。

――なんとも形容のしようがないほどに融通無碍で変幻自在。絶対矛盾の自己同一。手前勝手の超自己チュー。ずばり一言で表現すれば、ナンデモあり。あるいは、これこそが「中国の特色」の本質と言うものだろう。

ならば「勧善懲悪の基本原則に基づき至高の法典を制定する力量を持つと同時に、自己の制定した法律や法廷を信じぬこともでき」るのは、「中国の特色を持つ法哲学」を基盤にしていればこそ。「煩雑な礼節を制定する力量があると同時に、これを人生の一大ジョークとみなすこともできる」のは、「中国の特色を持つ倫理思想」のゆえではないか。

「罪悪を糾弾する力量があると同時に、罪悪に対していささかも心を動かさず、何とも思わぬことすらできる」と言うのも、「中国の特色を持つ罪悪意識」の拠ってきたる由縁に違いない。

「革命運動を起こす力量があると同時に、妥協精神に富み、以前反対していた体制に逆戻りすることもできる」のも、「中国の特色を持つ革命思想」あればこそ、か。《QED》