【知道中国 2592回】                      二三・一○・念六

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習258)

二千数百年ほど昔に生きた孔子の考えに対する批判が、なぜ政敵と見定めた目の前の林彪批判の根拠になるのか。なぜ古代に生きた孔子と20世紀を生きた林彪とは「批林批孔」とセットになり得るのか。なんとしても納得のしようがない。

敢えて言わせてもらうなら奇妙極まりない2人の取り合わせを、奇妙とは思わずに同列に批判・攻撃してしまう辺りに、おそらく中国人の思考回路の特徴が潜んでいるのではなかろうかと踏んでみたが、このナゾを解くヒントを目にした。それが、稀代の蔵書家であり読書家であったスターリンの生涯を彼の読書歴から解きほぐそうとした『スターリンの図書室 独裁者または読書家の横顔』(ジェフリー・ロバーツ 白水社 2023年)の次の指摘である。

「イガル・ハルフィンによれば、スターリンが率いる多数派は哲学的、政治的な論理を用いて反対派を『悪魔化』した。ボルシェビキは真実を独占したがると喝破したカウツキーは正しかった。ボルシェビキは自らの運動が社会的と歴史の科学的理論に裏打ちされており、自分たちのみが絶対的真実に到達しうると信じた。

「党内反対派の『悪魔化』は数年を費やして段階的に進んだ。最初は『小ブルジョワ的変更』と決めつけた。意図はどうあれ客観的には反革命を意味した。次の段階で、反党かつ明らかな反革命の勢力であると位置づけた」

ここに記されている「党内反対派の『悪魔化』」とは見事な表現だが、これに倣うなら、劉少奇は「資本主義の道を歩もうとした中国のフルシチョフ」と、そして林彪は「時代を後戻りさせようと企てた孔子ヤローの信徒」と強引に「悪魔化」された――こう考えれば、あの中国全土を挙っての狂気のような大批判の大合唱に納得がいく。

たしかに「ボルシェビキは真実を独占したがる」「ボルシェビキは自らの運動が社会的と歴史の科学的理論に裏打ちされており、自分たちのみが絶対的真実に到達しうると信じた」との指摘は、そのまま、これまで見てきた毛沢東派の言動に当てはまる。いや“合理的”に説明できる。

『スターリンの図書室 独裁者または読書家の横顔』が語るスターリンの振る舞いは、なにやら毛沢東のそれに微妙に重なってきてしまう。だとするなら毛沢東はスターリンの“焼き直し”、あるいは毛沢東はスターリンを目指したことにはならないか。

その死から3年後の1956年、後継者としてソ連共産党第一書記に収まっていたフルシチョフによる徹底批判によってヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ・スターリンは「悪魔化」され、その“栄光の生涯”はボロ雑巾のように歴史から抹消されてしまった。この事実を目の当たりにし、毛沢東は自らの死後に思いを馳せ、自らを否定するような“中国のフルシチョフ”が断固として生まれないように文革を発動させたも思えてくるのだが。

ここらで本筋に戻し、1974年11月に進むこととする。

当時の共産党中枢における注目すべき動きとして先ず挙げたい点は、やはり毛沢東と江青のギクシャクした関係だろう。

たとえば12日、毛沢東は江青に対し「余り表に顔を出すな。党の文書にとやかく文句を付けるな。積年の恨みは甚だしいが、ともかく多数と団結せよ」と書簡を送った。すると1週間後の19日、江青は「主席の希望に添えず恥じ入るばかり。物事を処すに昏(うと)く、客観的現実に唯物的に正しく対処できません」と“殊勝”な書信を返した。

これに対し毛沢東は「キミの仕事は国の内外の動きを研究することであり、重責でもある。この件については既に何回も伝えているが、仕事がないなどと口にすべきではない」と窘めている。だが毛沢東の忠告を素直に聞いているような江青ではなかった。《QED》