【知道中国 2585回】                      二三・一○・仲一

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習251)

 1974年9月には、魯迅の人生を「帝国主義、封建主義、反動派、機会主義、孔孟の道に対する徹底した非妥協的戦闘を、心臓の鼓動が止まる最後の一瞬まで続けた」と捉えた立場から、魯迅の生涯を、敢えて表現するなら“文革式快板書(こうだん)風”に描いた『永不休戦 魯迅批孔的故事』(魏格銘 上海人民出版社)も出版されている。

こうまでして魯迅を拍馬屁(ヨイショ)する背景には、儒教を根底にした伝統の弊害を魯迅ほど明確に批判し続けた作家・文筆家が見当たらないということもあろう。であればこそ批林批孔闘争の立場に立つなら、やはり魯迅に理想的な「批孔」の闘士像をあてはめようとしても強ち不思議ではない。

だが、毛沢東の魯迅評価は初期には「崇敬」ではあったが、以後は徐々に変化し、「貶斥(けなし排斥する)」段階へと移り、やがて嫌悪するようになり、最終段階に当たる文革期になると「悪用」するに至ったと分析する『毛澤東之於魯迅 ――從崇敬到惡用』(葉德浴 獨立作家 2015年)に従うなら、毛沢東による「中国文化革命の主な導き手であるだけではなく偉大な文学者であり、偉大な思想家であり、偉大な革命家」との魯迅評価は、どうやら「悪用」の典型、いわば“悪い冗談”としか言いようはなさそうだ。

一説には、建国から程ないある時、側近の1人から「いま魯迅が生きていたら・・・」と問われるや、毛沢東は「あんな小うるさいヤツは牢屋にぶち込まれるか、死刑だ」と応えたとか。これが本当なら、やはり魯迅は毛沢東に「悪用」されたことになる。それというのも、“超自惚れ屋”の毛沢東にしてみれば、自分以外に「中国文化革命の主な導き手であるだけではなく偉大な文学者であり、偉大な思想家であり、偉大な革命家」が存在するわけがない。ゼッタイに存在してはならないからである。

ここで趣向を変えて、この月に出版された文芸作品を2冊――『理想之歌』(人民文学出版社)、『一代新医』(上海人民出版社)――を紹介したい。

前書には毛沢東の指導と共産党の路線を讃える20数編の詩が、「《小演唱》叢刊」の一冊である後書には京劇、評弾、快板書、相声、数来宝などの古典芸能による文革賛歌作品が収められている。

どれもこれも相も変わらぬ“文革式拍馬屁(ヨイショ)文学”としか表現しようがないものだが、『理想之歌』の冒頭を飾る「中南海呵、我心中的海」などは典型中の典型と言っておきたい。

「嗚呼、中南海、我が心の海!」「嗚呼、中南海、無限の紅い光りの海!」「嗚呼、中南海、限りなき人民の心が向かう海!」「嗚呼、中南海、我らが敬愛して止まぬ海!」「嗚呼、中南海、光り輝ける真理の海!」「嗚呼、中南海、我らが階級の司令台!」「嗚呼、中南海、太陽が光り輝き続ける海!」「嗚呼、中南海、正義の激浪の海!」「嗚呼、中南海、紅旗を高く掲げる海!」「嗚呼、中南海、五洲四洋(せかい)に通じる海!」「嗚呼、中南海、革命人民の海!」と“感動”の押し売りである。

 ここで異常なまでに讃仰されている「中南海」だが、それが毛沢東を指すことは敢えて説明するまでもないだろう。

『一代新医』も『理想之歌』と大同小異で、ページを繰る毎に首筋が痒くなる。

たとえば「旭は大地を遍く照らし、祖国は紅旗に包まれる。毛主席の革命路線の勝利は約束され、文化大革命の凱歌が伝わってくる」で説き起こされる「奪電」は、毛沢東思想に導かれた「自力更生」の成果を高らかに謳い上げるのだが、ウソ臭く鼻白むばかり。

 それにしても、いつまで、こんなネゴトの類、いや阿呆陀羅教のオ題目を唱え続けるのか。ここら辺りの異常な振る舞いは、ハテ、文革期特有の現象なのだろうか。《QED》