【知道中国 2583回】                      二三・一○・初二

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習249 )

 

つまり『人民公社在躍進 上海郊区人民公社新経験』には、「なにものにも代えがたい精神の宝物」が詰まっていることになる。もちろんそれは、「毛主席の革命路線を貫徹することで得られた」ことになるわけだが。

上海市の周縁部に位置する宝山区には新日鉄が全面協力して完成した日中友好と改革・開放の“シンボル”でもあった宝山製鉄所、以前は上海県と呼ばれた閔行区にはロケットと人工衛星の製造工場、嘉定区にはトヨタ、GM、VWの自動車工場に加え上海インターナショナル・サーキット、金山区には金山石化総廠、青浦区には機械製造や金属加工の工場が並び、長江の中洲に在るがゆえに市街地とは切り離されていた崇明区は上海長江トンネル・大橋の建設によって上海中心部と結ばれるなど、いずれも上海の一部となり、欲望全開の超巨大都市を支えてきた。これが上海発展のカラクリだ。

だが、これらの地区は、かつては産業といえば農業のみ。上海の後背地に位置し、遅れた貧乏な農村地帯でしかなかった。だから本来なら、ここに挙げた変貌に「なにものにも代えがたい精神の宝物」を見出してもいいはずだが、やはり文革の時代であればこそ、副題に反映される「新経験」は毛沢東思想に導かれた革命的「新経験」でなければならない。

「前言」は「毛主席が自ら発動し領導したプロレタリア文化大革命と批林批孔運動は、人民公社をしてより燦然と光耀かせた。毛主席のプロレタリア階級革命路線の指導の下、上海郊外地区における人民公社の広範な貧農下層中農は社会主義の大道を大きく歩み前進し、階級闘争・生産闘争・科学実験の三大革命運動において巨大な勝利をえた」と高らかに宣言している。

ここからも容易に判るように、「新経験」とは人民公社が農村・農業・農民の生殺与奪の権を一手に握っていた時代のものであり、「巨大な勝利」は「上海郊外地区の人民公社の広範な貧農下層中農」によってもたらされたことになる。

男女の給与を同額にし、計画出産を実施し、農村の民兵も積極的に階級闘争に参加し、夜間に開講される政治夜学校で政治と思想の路線を真剣に学習し、自力更生で建設した小型工場を操業し、食糧の増産と大量備蓄を実現した――この本は、農村も農業も農民も人民公社の厳格な管理下で呻吟し、貧しい暮らしから抜け出せなかった時代の“麗しい成功譚”でもある。だから当然のように嘘っぽく、眉にツバ付けて読み進むべきだろう。

たとえば「1971年以前、南匯県において比較的落伍状態にあった坦直公社では食糧や綿花の生産は極めて低く、『このままの状態で坦直が進むなら、愚鈍なロバが快速の馬を追いかけるようなもの。馬の影もみえない』と見放されていた」と冷笑される始末だった。

だが、「1972年以来、坦直公社の党幹部は党の基本路線をしっかり把握し、批林整風と批林批孔運動を徹底して深化させ、群衆を引き連れて社会主義の金光大道を奔馬に鞭をくれるように勇躍として前進した! 現在、坦直公社のプロレタリア独裁はより一層強固になり、社会主義の新しく高い気風は大いに発揚され、農業生産は急速に発展している」のだ。

この報告を素直に読むと、1971年までは坦直公社における「食糧や綿花の生産は極めて低」かったが、1972年に林彪が権力の座から追放されてことで「社会主義の新しく高い気風は大いに発揚され、農業生産は急速に発展している」ということになる。

さほどまでに林彪が害毒を流していたと主張したいのだろうが、1971年まで毛沢東と林彪は共に文革を推し進めてきた「親密な同志」であった。いわば一心同体だったはず。1971年まで「食糧や綿花の生産は極めて低」かった責任を林彪1人だけにおっ被せるには無理がありすぎる。それほど深く考えなくても、一心同体なら毛沢東も同罪だろうに。

今や爛熟の域に達した上海郊外も、じつはかつては糞尿塗れの貧しい農村でした。《QED》