【知道中国 2581回】                      二三・九・念六

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習247)

 

この月、2冊の軍事関連書――『認真学習毛主席的軍事著作』(生活・読書・新知三聯書店香港分店)、「青年自学叢書」のうちの1冊である『軍事基本知識』(《軍事基本知識》編写組 上海人民出版社)――が出版されている。

前書は香港での出版ではあるが、『人民日報』や『紅旗』に掲載された評論や人民解放軍兵士などの関連論文を収める。

毛沢東の軍事関連著作を「認真(まじめ)」に学ぶことで、対日戦争や国共内戦において林彪が展開した一連の作戦が毛沢東の軍事思想に反したデタラメ極まるものであることを論証し、毛沢東による軍事作戦にとって少なからざる障害となったことを告発することを狙っている。

だが、つい数年前までは「毛沢東の親密な戦友」「軍事の天才」と歯の浮くような美辞麗句を並べて持ち上げていたわけだから、いまさら「叛徒、売国奴」と口汚く罵ったところで説得力は大いに欠けるだろうに、なぜ、ここまで根掘り葉掘り難癖を付け、徹底して揚げ足を取って論断する。いや、誰もが口を揃えて「叛徒、売国奴」と罵倒するのか。

やはり政治の動きに逆らうことなく、世間の流れに沿って唱和しておくことで、己の真意を韜晦し、我が身を守り抜こうとする意図が浮かんでくるようだ。おそらく建国以来続くワケの分からぬ、だが敗者には極めて残酷な仕打ちを伴う政治闘争の体験者にとっての生活の知恵だとも思える。

文革時代を振り返る多くの回想録に共通する点は、たとえ親兄弟、夫婦、親子の間柄であっても、自分以外にホンネを知られてしまったら、社会的に「整(まっさつ)」されて一巻の終わり。それを防ぐためには、やはりホンネを心の底に深く蔵し、権力の側が喚き立てるタテマエを唱和するに限るようだ。毛沢東の時代、いや現在に続く共産党独裁の下では、それが最も安全で簡便な精神安定法で生活防衛法――現在の“阿Q精神”ではないか。

ここで、改めて映画監督の陳凱歌が文革時代を回想した『私の紅衛兵時代』(講談社現代新書 1990年)の次の一節に思い至らざるをえない。

「昔から中国では押さえつけられてきた者が、正義を手にしたと思い込むと、もう頭には報復しかなかった。寛容など考えられない。『相手の使った方法で、相手の身を治める』というのだ。そのため弾圧そのものは、子々孫々なくなりはしない。ただ相手が入れ替わるだけだ。では、災禍なぜ起こったのだろう? それは灯明を叩き壊した和尚が寺を呪うようなものだ。自分自身がその原因だったにもかかわらず、個人の責任を問えば、人々は、残酷な政治の圧力や、盲目的な信仰、集団の決定とかを持ち出すだろう。だが、あらゆる人が無実となるとき、本当に無実だった人は、永遠にうち捨てられてしまう」

「文革とは、恐怖を前提にした愚かな大衆の運動だった」と苦々しく述懐する陳凱歌は、「大事なのは信じることそのものであって、なにを信じるかではない。信じることが可能なうちは、まだこの世に希望が残っている。純真さと勇気とを抹殺してしまえば、後の残るのは暴民でしかない」とも呟く。

建国から現在までの70有余年を振り返ってみれば、往々にして「自分自身がその原因だったにもかかわらず」、「個人の責任を問」われたなら、誰もが「残酷な政治の圧力や、盲目的な信仰、集団の決定とかを持ち出す」ことこそ、苛酷な政治の現実を生きる中国人にとっての生活の知恵と思えるのだが。

それというのも、そうすれば「個人の責任を問」われることがないからだ。だが同時に、やはり「あらゆる人が無実となるとき、本当に無実だった人は、永遠にうち捨てられてしまう」ことも、また事実に違いない。いやはや一筋縄で捉え難い社会であり人々だ。《QED》