【知道中国 2580回】                      二三・九・念四

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習246)

 

74年9月になると、どうやら毛沢東の衰えは隠しようがなく、床ずれに悩まされはじめたらしい。故郷に近い長沙に滞在していた毛沢東の許に伺候した鄧小平は北京に戻った後、党政治局に「毛沢東は水泳をしている」と報告していた、とか。ならば鄧小平は秘かに近未来の中国と共産党の姿に想像を巡らせ、「毛沢東の死]に身構えはじめたに違いない。

当時、フィリピンのマルコス大統領のイメルダ夫人が訪中し、20日に北京の305病院に入院中の周恩来を訪れた後、24日には長沙にまで足を伸ばし毛沢東と面談している。この時、毛沢東は同夫人の手に“西洋式キス”をしたことが伝えられた。

29日には日本との間で定期航空路が開設されている。

30日、大病を抱えながらも、周恩来は人民大会堂で国慶節に参加する内外の招待客歓迎宴を主催した。

1966年の文革開始から既に8年が過ぎ、毛沢東の肉体は衰えるばかり。権力の頂点に立つとはいえ、衰えた肉体には萎えた気力を奮い立たせるだけの余力は残ってはいないだろう。文革の意義も薄れ、目標を失った社会は停滞と漂泊の道を進んでいたに違いない。

こんな状況に深刻な危機感を抱いたからと思われる。「ある政党が革命の勝利を導くためには、正確な政治路線と強固な組織基盤が絶対に必要である」との『毛主席語録』を巻頭に配した『増強党的団結』(浦江紅編写 上海人民出版社)が、55万部出版されている。

前月には同じ上海人民出版社から『加強党的一元化領導』(2576、77回参照)が100万部出版されているところから想像するに、上海の文革派、つまり四人組は党組織の締め付けに躍起になっていた。つまり文革に対する“厭戦気分”が社会の隅々にまで漂い始めた。文革=毛沢東思想のタガが緩んでしまったからに違いない。

『増強党的団結』の編著者名である「浦江紅」だが、「浦江」は上海を暗示していることは容易に想像がつく。ならば浦江紅が真っ赤な上海、つまり上海に完全無欠の共産党を打ち立てようとの狙いが込められていると、敢えて考えてみたい。

『増強党的団結』を貫く主張を簡単に整理しておくと、

(1)マルクス主義の基本原則は団結であり、分裂してはならない。党の団結を堅持することは偉大なる革命の導き手(=毛沢東)の一貫する教えであり、正確な路線を執行する重要な保証であり、革命の勝利を勝ち取るための基本条件である。

 (2)マルクス・レーニン主義、毛沢東思想を基礎に団結を堅持せよ。党の団結の思想的基礎はマルクス・レーニン主義、毛沢東思想であり、民主集中制は党の団結の組織的保証であり、毛沢東を頭領とする党中央こそ全党団結の核心である。

 (3)党内闘争を正確に進めることは、党の団結を高める根本的過程である。断固として闘争哲学を堅持し、異なる性質の矛盾を明確に区分し、「団結――批判――団結」の方針を実行しなければならない。

 (4)共産党員は団結の模範とならなければならない。敢えて時代の風潮に逆らう革命精神、「五湖四海(せかい)」のような広い心、公明正大で高貴な人格、謙虚で慎ましい優れた作風を持たなければならない。

 ――『増強党的団結』の主張をこう整理してみたが、文革開始からの苦節を経た共産党を取り巻く内外環境は「党の団結」を「増強」するには程遠く、「毛沢東を頭領とする党中央こそ全党団結の核心」との強弁は現実との乖離を物語っているに過ぎない。「党の団結」は乱れに乱れ、すでに共産党員は「団結の模範」ではなくなっているばかりか、党は改めて「団結」の「増強」を訴えねばならないほどに弱体化している。

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『増強党的団結』は文革8年目の共産党の断末魔の叫びと受け取れる・・・のだが。《QED》