【知道中国 2570回】 二三・八・念七
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習236)
1974年5月で残るは、『女隊長(演唱専輯)』(人民文学出版社)、『戦闘歌声 ――上海市群衆歌咏大会歌曲選』(上海市群衆歌咏大会籌備小組編 上海人民出版社)の2冊である。
前書は2人の芸人が掛け合いで語り唱って、1つの物語を完結させる演芸の台本。4つの物語が収められているが、「あれやこれやありますが、とどのつまりは毛主席のお導きで・・・バンザイ、バンザイ、万々歳!」と、超予定調和で幕となる。
残る1冊は上海で民衆を集めて歌唱大会を開催し、批林批孔闘争を煽ろうと企図された作品を集めたもの。不思議なことに港湾労働者と民兵を讃える内容の歌で埋め尽くされている。たしか四人組の王洪文の上海での権力基盤は民兵だったはず。これが正しいなら、『戦闘歌声 ――上海市群衆歌咏大会歌曲選』は王洪文の“御用達”である民兵訓練用ということにもなろうか。
以下は、1974年5月分の出版部数。出版部数が記されていないものは省いた。
『批林批孔雑文 (二)』(上海人民出版社)=20万部
『狠批“克己復礼”』(上海人民出版社)=9万部
『五・七幹校散文集』(上海人民出版社)=15万部
『青年自学叢書 政治経済学基礎知識 下冊』(上海人民出版社)=45万部
『談談増産節約』(上海人民出版社)=15万部
『戦闘歌声』(上海人民出版社)=10万部
いやがうえにも、上海人民出版社の奮闘振りが目立つのである。
1974年6月に移ると、周恩来の容態が厳しさを増す一方で四人組の活動は活発化し、周恩来攻撃を暗示させる“紙の爆弾”が連続的にメディアに溢れた。
6月1日、周恩来は北京西城区に位置し、中央軍事委員会聯合参謀部直属の人民解放軍第305病院し、大手術を受ける。以後、病室に留まったまま。当然のように日常業務は滞る。周恩来不在の“穴”を埋めるべく、毛沢東は中央の日常業務を王洪文に委ねたのである。
一方、四人組側の活動は活発化した。以下、時系列に従って主な動きを示しておく。
1日=『紅旗(第六期)』に梁効が「論商鞅」を発表し、「天下大乱期に求められる人物こそ商鞅だ」と主張。
12日=江青が人民大会堂で梁効、唐暁文ら配下の筆杆子(ペンのブレーン)と接見し、儒法闘争の継続を督戦・叱咤。
14日=江青は人民大会で開かれた批林批孔大会における講演で、「いま、極めて大きな儒が認められる。?介石がそうであり、ソ連修正主義がそうであり、その外に・・・。だからこそ、かくも長期に亘って、批林批孔を続ける意味があるんです」と煽りまくった。
15日=江青、『北京日報』が「法家人物紹介欄」の掲載を始めるや、早速、『人民日報』屁の転載を指示。
16日=『人民日報』、『北京日報』からの転載の「佐高祖定天下」を受け、「高祖(劉邦)を佐(ささ)えて政権を掌握した後に直ちに法家路線を採用し、天下を安定させた」と、劉邦の妻である呂后の功績を称える。呂后が江青を暗示していることは、ミエミエ。
17日=『北京大学学報(第三期)』が「法家代表人物紹介」で呂后を「中国政治史上、傑出した女性政治家であり、果断な措置を採用し、政敵である韓信を殺した」と讃えた。
18日=『人民日報』は社論「在闘争中培養理論隊伍」で、「二千年余の儒法闘争の影響は一貫して現在にまで影響を与えているし、今後とも影響を与えるはずだ」と。同日、国家計画委員会は党中央政治局に対し、1974年上半期の工業生産が低下している地区の少なくないことを報告・・・矢張り国を挙げての政治闘争に経済活動は悲鳴を上げる。《QED》