【知道中国 2568回】 二三・八・念三
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習234)
「歴史のない国」「歴史の呪縛から抜け出せない国」といったテーマは、長期に亘って寝かせ十分に発酵させてから、再び俎上に挙げて論ずることにしたい。今のところは乞うご期待、とまでは言い切れませんが。
次は『五・七幹校散文集』(上海人民出版社)だが、先ずは「五・七幹校」について若干の解説を。
「五・七」とは、文革開始前夜に毛沢東が林彪に「全国を学校にせよ」と指示した日が1966年5月7日だったことに因んで命名された幹部や知識人のための再学習機関で、共産党中央と国務院(政府)直属のものだけでも100校を数えたと言われている。
ほとんどが農村に設置され、ここに幹部、官庁職員、教員などホワイトカラーの頭脳労働者が交代で送り込まれ、半年から3年の間、農民との交流と農作業を通じて学習し直し、毛沢東思想を徹底して学ぶことを目的に掲げていた。いわば「為人民服務」「自力更生」の実を身を以て学ぼう、学ばせよう。骨の髄まで叩き込もうといったところ。狙いは都市の若者を農山村に送り込んだ「上山下郷」「下放」と同じ趣旨である。
『五・七幹校散文集』には各地の五・七幹校で学んだ際の感想文が26本収められている。どれも毛沢東思想を讃え、日常業務の中で如何に「為人民服務」を怠っていたかの反省文の類が並んでいる。だが、これはタテマエに過ぎないとしか言いようはない。
じつは文革後になって、五・七幹校を経験した多くの回想録が出版されたが、恨み辛みの文章が少なくない。日頃、筆記用具以上に重たい物を持ったことのない彼らが、クソ重いスキやクワを持たされ、荒れ地を開墾させられたとか、酷い例では胸まで浸かる泥田に入り、後から流し込まれる大量の糞尿を体を使ってかき混ぜ、肥料を作った体験まで。
渥美清の寅さんではないが、「糞闘努力の甲斐もなく・・・」というのが、これまで目にした五・七幹校での日々を綴った回想録に共通する“恨み節”だ。
ところで文革当時、我が国の学界やメディアにおける親中派・毛沢東主義者を網羅して作った『現代中国事典』(講談社現代新書 昭和47年)には五・七幹校に関しての教育目的に「官僚主義の克服」を挙げ、次のように解説している。
「古参幹部の中には、高い地位と多額の俸給をえてぜいたくなくらしをするものもできた。〔中略〕彼らは大衆から離れ、労働から離れ、実際からも離れて、〔中略〕役人風や旦那風を吹かせるようになる。さらに文化大革命できびしく批判されたのを不満に思って、すっかりやる気をなくしてしまった幹部もある。文化大革命のなかから新しく育った幹部にしても、機関の中にこもってばかりいてはやはり官僚主義の悪風にそまってしまう。幹部学校は、こうした幹部の官僚主義を克服し、思想を革命化する上で重要な意義をもっている。
〔中略〕各機関では大幅な機構改革と人員整理を行ない、多数の幹部が農村に下放することとなった。つまり幹部学校は機関を簡素化し、革命家する上でも大きな役割をはたしているのである」
長い引用になってしまったが、要するに日本の学界やメディアは中国側の発表をそのまま垂れ流すだけだったわけだ。たしかに習近平一強体制が強権振りを一段と見せるようになった昨今になって、北京のラウドスピーカーのような悪弊は余り見かけなくはなった。だがメディアは気まぐれであり、学界もまたそのメディアに煽られっぱなし。加えて世論は気まぐれだ。ならば、いつ何時、“中国礼賛”が息を吹き返すか分かったものではない。
次の『政治経済学基礎知識 下冊(社会主義部分)』(上海人民出版社)は、すでに同書「上冊(資本主義部分)」は1月分で解説してあるので、第2551,2回を参照願いたい。《QED》