【知道中国 239回】                                〇九・五・仲三

「愛国教育基地探訪(その1)」
                ―天津で出会った「定礎 皇紀貳千六百貳年」―


 中国各地には愛国教育基地なる施設が数多く存在する。毛沢東に因縁深い場所、共産党烈士の生まれ故郷、国共内戦の激戦地、「抗日戦争」に因縁浅からぬ戦場など。これらの場所の見学ツアーを「紅色游」と呼び、専門ガイドブックの『中国 紅色游 紅色旅游完全図文手冊』(《中国紅色游》編委会 中国旅游出版社 2007年)も出版されている。もちろん共産党の功績を大々的に讃え、国民に周知徹底させようという狙いはミエミエ。ということは、『中国 紅色游 紅色旅游完全図文手冊』を手に愛国教育基地を歩けば、共産党が国民をどっちの方向に引っ張っていこうとしているか。自ずから判ろうというもの。そこで、ゴールデン・ウイークを利用しての愛国教育基地探訪ということになった次第だ。

 最初は2年前。「革命の聖地」で知られる延安、張学良が楊虎城と手を組んで共産党掃討作戦の督戦にでかけてきた蒋介石を逮捕・監禁した「西安事件」が起こった西安、「国共謀略戦」の最前線となった重慶を経て上海に抜けた。旅のハイライトは延安のハズだったが、どこの街でも「延安へ行ってきた」というと、誰からも「アッハッハ」と爆笑されズッコケたもの。だいいち延安ですら、カラオケの女性従業員に「延安くんだりまで、ご苦労さんのこった」とでもいいたげに対応された。いやはや、いまや「革命の聖地」もカタナシ。

 昨年は武漢、長沙、南嶽、衡陽を経て日中戦争の最後の激戦地であると同時に米空軍による蒋介石支援の象徴ともいえるシェンノート率いるフライング・タイガー基地のあった 芷江、鳳凰を過ぎ、四川省と省境を接し湘西と呼ばれる湖南省西部の山間の悪路を揺られて常徳で一息。四川大地震の1週間ほど前のこと。芷江の空港の片隅に残るフライング・タイガー司令部跡の内部には、当時から現在までの米中協力を表す記念写真が所狭しと展示されていた。少し離れた場所に立つ記念館では、共産党(大陸)、国民党(台湾)、フライング・タイガー(米国)の3者が日本を敵に協力した様が誇示され、さながら3者は湖南省西部の山峡で密かに“蜜月関係”を楽しんでいる風に見えた。

 かくて今年は天津、唐山、秦皇島、乾隆帝や西太后を葬った清東陵近くの遵化を経て万里の長城の外側に。歩を進めて清朝皇帝が炎天の北京を逃れ遊んだ避暑山荘の所在地で知られる承徳(熱河)に向かい、ここから南下して古北口で長城の内側に戻り、広大な赤土の湖底を無様に晒す密雲ダムを右手に眺めながら北京入りのルートを取ることとなった。

 天津の旧日本租界では、大日本武徳会天津支部が昭和十六年に建設した武徳殿が往時そのままの外観を留めている。しかも玄関向かって右脇の御影石の台座には「定礎 皇紀貳千六百貳年」と刻まれたまま。中国各地で経験することだが、歴史的建造物などが壊され無惨な姿を晒していると十中八九は「これは文革当時に紅衛兵の手で」との言い訳。往時のままの姿を残している場合は、ほぼ例外なく「周総理が紅衛兵から守った」との周恩来賛辞。さて天津の武徳殿が残ったのは、紅衛兵の破壊から周恩来が守ったからか。紅衛兵が破壊する価値すらナシと歯牙にもかけなかったからか。はたまた、この純日本風の建物を、当時は「日本帝国主義の侵略の証」と思ってもいなかったのか。それにしても、いまや日本でも数少ないであろう皇紀年号の残る建造物を残しておいてくれたとは、天津という街に掛け値なしに感謝感激。かくて3年目の愛国教育基地探訪がはじまった。  《QED》