【知道中国 2559回】                      二三・八・初三

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習225)

 

1974年4月になると、孔子と儒家に対する批判は学術界を舞台に一層活発化する。

北京大学と清華大学のエリート集団である「北京大学・精華大学批林批孔研究小組」は「北京大学・精華大学大批判組」と改名され、北京大学内に活動拠点を置き、江青の直接指揮の下で「梁効」「柏青」「高路」などペンネームで関連論文を次々に発表しはじめた。

先ず『紅旗』『北京大学学報』に「孔丘其人」を発表。同じ『紅旗』には羅思鼎の「評『呂氏春秋』」が掲載される。

こうなると稀代の変節漢で、文革勃発時に「過去の自分の研究は文革の前では無意味であり、全てを焼き尽くしてくれ」とまで言い放って毛沢東に迎合した郭沫若が黙っているわけがない。批林批孔闘争を拍馬屁(ヨイショ)する詩を、早々と毛沢東に献じた。

北京大学教授で中国哲学の権威として内外に知られていた馮友蘭は『北京大学学報』『光明日報』『北京日報』などに孔子批判・尊孔批判の論文を次々に発表し、毛沢東の大絶賛を受ける。毛沢東の知遇をえたことから、馮友蘭は江青の顧問に就任している。ところが1984年になると、彼は当時の文革当時の経緯を回顧して「別に真理を究めようとしたわけではなく、時流に沿っただけだ」と嘯いていた。寅さんじゃないが、「見上げたもんだよ・・・」

たしかに権力闘争が止むことなく、社会は激変に次ぐ激変だった。ならば学者であろうが政治闘争の激流を泳ぎ切り生きていくためには権力に“添い寝”しなければならない、という事情は分からないわけでもない。だが、それにしてもミットモナイ。いや、そうではなく。歴史を振り返ってみても権力闘争が繰り返されてきた中国においては、それが学問を以て身を立てようとする学者という存在にとって避けては通れない生きるための“方便”であり、“処世術”と捉えておくべきではなかろうか。

国内的には批林批孔闘争が激しさを増す一方で、中国は国際社会に積極参入を始める。

4月6日朝、北京空港で病身の周恩来から見送りを受けた副首相の鄧小平はニューヨークに向かい、10日には国連総会に出席し、毛沢東が唱えた「三分世界論(三つの世界論)」をブチ上げた。

1974年2月22日、毛沢東はザンビア大統領を迎えた席で、アメリカ、ソ連を「第一世界」、日本、ヨーロッパ、カナダ、オーストラリアを「第二世界」、日本を除くアジア、アフリカ全体、ラテンアメリカを「第三世界」と世界は三分され、「第三世界」に属する中国は、豊かな国や大国には較べるべくもなく、貧しい国々と共に在る、と説いた。これって、いわば昨今はやりの「グローバルサウス」論の“元祖”ではなかろうか。

それから2カ月ほどが過ぎた4月10日、勇躍と国連に乗り込んだ鄧小平は総会の議場に立ち内外に向かって、「中国は社会主義国であり発展途上国でもある。第三世界に属する中国は第三世界の大多数の国々と同じような苦難の歴史を歩み、同じ問題と任務に立ち向かっている」と言い放ったわけだ。これが現在まで続く共産党政権の世界解釈の原点であり、ここに現在まで続く外交政策の基本と考えておくべきだろう。

ところで病身の周恩来だが、働き詰めの毎日が続く。28日には酸欠状態に陥ったと報告されている。

相変わらず批林批孔闘争関連の論文集――『紅旗』や『人民日報』に掲載された論文や社論、さらには一般の労働者・農民・兵士が執筆したとされる批判小論まで――が出版されている。いま、それらを挙げておくと、

『工農兵批林批孔文選之二 批“克己復礼” ――林彪妄図復辟資本主義的反動綱領』、『歴史車輪不容倒転 ――曲阜貧下中農批林批孔紀要』、『“克己復礼”就是復辟 ――北京衛戍区某部六連批林批孔文章選編』(以上、人民出版社)・・・まだまだ続きマス。《QED》