【知道中国 2560回】                      二三・八・初五

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習226)

 

『孔丘是反革命復辟祖師爺 ――?林彪反動思想的一条黒根』(京大哲編写)、『再批“克己復礼”』(以上、香港三聯書店)である。

以上の6冊に収められた学術性の高い論文から名もなき労働者・農民・兵士の感想文の類まで一篇一篇を論じてところで、やはり生産的ではない。いや無意味であり徒労だ。そこで6冊全体を貫く主張をザックリと捉えてみた。

――孔子は頑固で強暴だが、それは自らが抱えた弱点の裏返しでしかない。陰険狡猾極まりない振る舞いは時代の進歩に取り残された者が見せる腐り果てた姿だ。ヤツは時代に取り残され没落する奴隷主階級の本性を代表し、それはまた滅び行く反動階級を象徴する人物に共通する特徴でもある。

今日、孔子の反動振りを徹底して暴き出し告発することは、王明、劉少奇、林彪のような政治的ペテン師を見破り、時代を後退させようとする策動に反撃を加え、旧権力復辟への妄動を阻止することであり、極めて有意義な使命である――

だが、何回でも言っておきたい。なぜ2500年ほども昔に生きた孔子に対する批判が毛沢東にとって不倶戴天の敵とされた王明、劉少奇、林彪の悪行を告発し、彼らを葬り去ることと“理論的”に結びつくのか。その根本理由が、文革から半世紀以上経た現在でも、どう考えても分からない。果たして孔子は習近平政権が「復興」を目指す「偉大なる中華民族」にとって、どのような位置づけに落ち着くのか。

まあ全てが“方便”であり、その場限りのヘリクツと考えれば、批林批孔闘争に対する疑問も一切とは言わないまでも、一部でも氷解することになるわけだ。だが、それにしても、当時の中国の人文系の“最高知能”を動員して、ここまでシャカリキになって批判するほどの意味があったのだろうか。

ここで、「克己復礼」に関するオ笑いを1つ。

林彪失脚の後、林彪宅の書斎を捜査すると、机の上に置かれたメモに「克己復礼」と書かれていたそうだ。これぞ林彪が孔子を慕い、孔子の考えを拳々服膺し、資本主義の「復辟」を狙っていた“鉄の証拠”と告発している。だが、僅かに漢字4文字の「克己復礼」から、さほどまでに大それた歴史的陰謀が読み取れるとでもいうのか。まァ、毛沢東から華国鋒へ共産党政権の全権力委譲の根拠が毛沢東のメモ書きとされる「?弁事、我放心(アンタがやるなら、ワシャ安心)」の6文字というオ国柄であるからには、「克己復礼」を根拠とする林彪批判も強ち荒唐無稽と決めつけてしまうこともなさそうだし。

さて孔子批判の矛先は中国を飛び出してソ連に向かった。国際化と言えば聞こえはイイが、実態は八つ当たりと言うべきだろう。それが『孔老二的亡霊和新沙皇的迷夢』(人民出版社)である。

巻頭を飾る「孔老二的亡霊和新沙皇的迷夢 ――評蘇修尊孔反法的卑劣表演」を執筆したのは江青配下にあった北京大学・精華大学大批判組。彼らは当時の中国における人文系の若き最高知能集団であったと見て間違いないだろう。

その最高頭脳は、「最近、世界のあちこちの暗がりで、孔子を持ち上げるドタバタ調の小芝居が演じられるようになった。モスクワの舞台では、ソ連修正主義の新たなツアーリが演出する孔子を持ち上げ、法家を蔑む道化芝居が掛けられているが、この上なく醜悪拙劣極まりない。人々は、ソ連修正主義の演技から、社会帝国主義の獰猛な本質をハッキリと見て取ることだろう」と切り出した。

以下グダグダと書き連ねるが、要は「ソ連修正主義叛徒集団」が中国に対する行動の一切は「尊孔反法」を基調とし、「反華(反中)」に狙いを定めている、と糾弾する。《QED》