【知道中国 2561回】                      二三・八・初七

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習227)

 

「蘇修叛徒集団」と「尊孔反法」が、どこでどう結びつくのか。『孔老二的亡霊和新沙皇的迷夢』に収められた5本の論文(=反ソ檄文)のどこを読んでも納得できる《解》にはお目に掛かれない。要するに自分に都合のいい理屈(=屁理屈)を書き連ね、仲間内で納得し(た風を装い)、気勢を上げているに過ぎないように思える。つまり広東人が好むアノ俚諺――シッカリ戸締まりして家族でマージャン。盛り上がっているのは家族だけ・・・世間は全く関係ない――に近い。

言い換えるなら夜郎自大の極致となるわけだが、その一端を物語るのが『孔老二的亡霊和新沙皇的迷夢』の掉尾に置かれた『人民日報』(1974年3月6日)から転載された檄文の結論部分だろう。

「人民大衆が拍手喝采を祝う日こそ反革命分子にとっては受難の時だ。ソ連修正主義社会帝国主義は世界の片隅に蹲って涙を流すことになる! 中国人民は着実に歩み、批林批孔闘争を最後の最後まで推し進め、徹底した勝利を手にするのだ」

勇ましい言葉が舞い踊る檄文であることは認めるが、内容が荒唐無稽で過激であるだけに、虚しさだけが残る思いだ。

ここで一気に時代を下って、唐宋八大家の1人に数えられる柳宗元(773~819年)の「封建論」を扱う『柳宗元《封建論》訳註』(広東人民出版社)を見ておく。

『柳宗元《封建論》訳註』に拠れば、柳宗元は「唐代の著名な唯物主義哲学者、文学者であり、政治的には王叔文を指導者とする革新集団の構成員」であり、「封建論」は「我が国古代の傑出した尊法反儒の政治論である」そうだ。

『柳宗元《封建論》訳註』は広州の中山大学中文系による詳細な脚注、現代語訳、それに「封建論」に関する2本の論文を収めている。

なぜ批林批孔闘争の時代に千数百年も昔の柳宗元を持ち出すのか。その理由を要約すると、

1:歴史のうえで見られる革命と反革命、革新と保守の戦いは思想の領域において、常に尊法反儒と尊儒反法の形を取る。

2:保守反動勢力と儒家の伝統は極めて根強いものであり、進歩勢力は思想領域で絶え間なく闘争を繰り返してこそ最終勝利を勝ち取ることができる。

3:革命、あるいは進歩の側に立つ者のみが時代を退歩させようとする潮流に反対する精神を保持し、それゆえに伝統の束縛を断ち切ることができる。

ここでも疑問は消えない。はたして柳宗元を持ち出すことで、「ブルジョワ階級の野心家、陰謀家、反革命両面派、叛徒、売国罪人の林彪」に対する批判の“精度”が高まるのか。

『欧州哲学史上的先験論和人性論批判(論文集)』(汝信・葉秀山・傅楽安・王樹人 人民出版社)は、柏拉図(プラトン)、托馬斯(トマス・アキュナス)、康徳(カント)を俎上に載せ、彼らの哲学を「唯心論的先験論」「主観唯心主義」と批判している。「マスクスレーニン主義、毛沢東思想を学ぶに当たって一層深く林彪批判と整風を進めるためには、なにが唯物論で、なにが唯心論であるかを截然と分離して学ぶためことは限りなく大きな意義を持つ」との「毛沢東の重要な指示」に基づいて執筆された7本の学術論文を収めている。

ここで、これまでと同じ疑問を持たざるを得ない。はたしてプラトン、トマス・アキュナス、カントの哲学を「唯心論的先験論」「主観唯心主義」と批判したところで、それが「ブルジョワ階級の野心家、陰謀家、反革命両面派、叛徒、売国罪人の林彪」の犯罪に対する客観的で完全無欠な批判につながるのか。どう考えても、やはり、とても、オカシイ。《QED》