【知道中国 2546回】                      二三・七・初七

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習212)

 

1973年12月、上海人民出版社は連環画タイプ(13cm×15cm。134p)でイラスト満載の『従猿到人』(上海自然博物館編)を出版した。

先ず「現代の類人猿は、なぜ人に似ているのか」を解き明かし、次にダーヴィンの進化論を掲げ「ダーヴィン学説と彼が掲げる多くの科学的根拠が、搾取階級が社会支配の根拠としている『神が人を創造した』『万物は永遠に不変』といった類の唯心論と形而上学を徹底して打ち砕いた。これこそ唯物主義の唯心主義に対する一大勝利である」と結論づける。

そして「唯心論と形而上学を批判し、唯物論と弁証法を広く伝え、人類の起源に関する知識を普及させるため」と、『従猿到人』の出版目的を明かす。

だが、終わりの見えないような文革の日々に不安を抱える人々が、はたして喜んで『従猿到人』の表紙を開いただろうか。大いに首を傾げざるを得ない。おそらく費用対効果は限りなく低かったに違いない。この辺りにも中国人の発想法の持つ“弁慶の泣きどころ”が潜んでいる。と言うことは、その辺りが“攻めどころ”と思う。

愚が群れるのが「衆愚」だが、筆杵子(知)の主張を読んでいると、知を集めた「衆知」もまた存外に「衆愚」に通じると思えてくるから不思議だ。それというのも彼らが集団思考に陥ってしまっているから、オノレのバカさ加減に気づかなくなるに違いない。

次いで読むのは『封建社会』(史星)で、これも上海人民出版社からの出版である。

この本では封建社会を人類社会発展の5種の社会形態の1つと捉え、奴隷社会に代わって出現し、発展と衰亡を経て資本主義を育み、やがて資本主義に取って代わられた。現在、資本主義は臨終段階に差し掛かっており、すでに社会主義が人類にとっての新紀元を開いた――との考えに基づき主張を展開する。

ここで細かい記述に対し、とやかく批判しても無意味に近いと思うので立ち入ることは避けるが、この本は「歴史に一定の科学的地位を与え、歴史の弁証法的発展を尊重し、過去を尊び現在を否定するのではなく、どのような封建の毒素であれ賞賛してはならない」との毛沢東の言葉(『新民主主義論』)に貫かれている。

かくて毛沢東の尊い教えに背き、中華民族の輝かしい文化を否定し、「洋奴哲学(せいようかぶれ)」に毒された反動主義者である劉少奇、林彪のようなクソッタレは徹底して批判されなければならない、となる。

だが『封建社会』を読んでみても、どう考えようが劉少奇、林彪を批判する論拠はゼロに近い。ムリにムリを重ねたコジツケだ。『論語』の「巧言令色少なし仁」を援用するなら、「理論狡知少なし真」ではなかろうか。

「《学点歴史》叢書」の1冊である『従凡爾賽和約到慕尼黒協定』(胡思升編写 人民出版社)では、「中国の今日を知るためには、中国の一昨日、昨日を理解しなければならない」との歴史学習に対する毛沢東の教えに従って、第1次世界大戦に幕を引いた1919年の「凡爾賽和約(ヴェルサイユ条約)」から始まり、第2次世界大戦の発端となった1938年の「慕尼黒(ミュンヘン)協定」までの間の、西欧帝国主義諸国間の“浅ましい姿”を描き出す。

歴史の法則に従って西欧帝国主義諸国は「ゴミとなって歴史の彼方に吐き出され」、衰亡への道を歩まざるを得なかった、と結論づける。

かくて『従凡爾賽和約到慕尼黒協定』は、「いまや帝国主義と社会帝国主義の騒動屋どもは“和平”の声を上げて各国人民を騙して止まない。だが、まさに革命は雄々しき歩みをみせ、より広い規模で歴史の車輪を力強く推し進めている」と、感動的に閉じられている。だが、どう考えても浮かんでくる読後感は理論的カラ回りでしかない。

敢えて誤解を恐れずに“底上げされた陳腐な歴史観”と評したい。虚しいばかり。《QED》