【知道中国 2544回】 二三・七・初三
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習210)
ここで何気なく出版部数が気になったので、改めて1973年11月分を調べてみると、
『商鞅変法』(上海人民出版社)=70万部
『王充――古代的戦闘唯物論者』(人民出版社)=15万部
『天問天対註』(上海人民出版社)=15万部
『形式邏輯』(上海人民出版社)=30万部
『両種社会 両種貨幣』(上海人民出版社)=20万部
『在天河両岸』(広西人民出版社)=6.65万部
『幼苗』(広西人民出版社)=60万部
これまで調べていなかったので何とも言えないが、この数字からも四人組の牙城であった上海人民出版社の“突出”ぶりが浮かんでこようというもの。やはり同出版社は四人組御用達の“紙の爆弾”を製造する砲兵工廠だったと考えて間違いないようだ。
それにしても、どれほどの紙と印刷インクが使われ、どれほどの部数が現在の中国に残っているだろうか。文革の残滓として断裁され、溶かして再利用されてしまった・・・とするなら、文革版の“メディア戦史博物館”の価値は、時を経るに従った重要性(珍奇性?)を増すと私かに自負したいきにもなるのだが。
さて月が改まった1973年12月の注目すべき出来事といえば、次の3件か。
第一は12日に毛沢東が「柔中有剛、棉裡蔵針」の8文字で評し、鄧小平を人民解放軍総参謀長に指名し、党軍政の大権を鄧小平に集中的に委ねたこと。
第二は15日に筆杆子集団の羅思鼎が文革派理論雑誌『学習与批判』(第4期)に「漢代的一場儒法大論争――読『塩鉄論』札記」を発表し、儒法論争の戦線の拡大を企図したこと。
第三は教育面での見直しが試みられたことだろう。月末の30日、国務院と北京市の両科教組が合同会議を開催し、突如として17の大学・高等教育機関の教授に試験を実施した。参加者は全部で612人。合格は53人のみ。200人は白紙答案で、2カ所の大学では全員が0点だった。時を置くことなく上海、天津などでも北京同様の試験が急遽実施されたが、結果は北京と大差なかったようだ。
文革開始以来すでに7年を経て、四人組が突き進む文革過激路線は表面的にはともかくも、国民を経済的にも精神的にも荒廃させ、社会秩序の動揺は覆いがたい現実として白日の下に曝され始めたのではいないか。
このような事態に焦ったから、毛沢東は異例な形で鄧小平を再抜擢し、党と国家に対する引き締めを狙ったのではないか。教育界もまた過剰なイデオロギーに翻弄され、疲弊し、本来の機能をはたせないままに漂流を続けていたように思える。だが、すでに四人組はフル・スロットルで走り出してしまっていた。
ここで新たに超大物の筆杆子である楊栄国(1907~78年)が登場する。中山大学を拠点に儒教を軸に長年にわたって古代哲学研究を進めてきた彼は、『反動階級的“聖人”――孔子』(楊栄国編写 人民出版社)を引っ提げて儒法論争の戦線に躍り出た。だが、考えれば不思議なことだが論争とは「A」と「B」の両理論の間でどちらが正しいかと論じ尽くす知的な戦い。だから賛否双方がいなければ論争は最初から成り立たない。
文革時の儒法論争をみると、最初から悪と決めつけられた儒家(=林彪)の立場に立って弁明する勢力は全く存在しない。儒家はサンドバックとなって法家擁護・称揚陣営に殴られるだけ。これでは論争ではなく、一種の嬲り殺しだろう。それでも論争と言い張る。当時の中国は奇妙に歪で、虚しいばかりの心象風景に覆われていたように思う。《QED》