【知道中国 2539回】                       二三・六・廿

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習204)

 

 まず楊寛だが、20世紀中国を代表する神話・諸子百家・戦国史などを専門とする先秦史の専門家である。浩瀚な自伝『歴史激流 楊寛自伝 ある歴史学者の軌跡』(新潮社 1995年)で、「中国文明は古代から共産党政権の現在まで、都市が農層を搾取する社会構造で一貫している」とし、対外開放以後の共産党政権の農村政策を暗に批判していた。また、当然のように文革を否定していたが、じつは『商鞅変法』などと言った“毛沢東ヨイショ本”を書いていたのである。

 『商鞅変法』は、そんな楊寛が綴った戦国時代の秦に仕え、法治と富国強兵を目指して秦の改革を進めた商鞅の事績を追った著作である。

 始皇帝が天下統一を成し遂げた背景には、土地の私有制・土地売買の自由・度量衡の統一など商鞅が進めていた法家思想を軸とする国家運営にあると共に、韓非子が構想した中央集権封建国家の理論の実践がある――『商鞅変法』の主張の柱だ。

 この本の末尾で楊寛は、「彼ら(商鞅と始皇帝)は没落貴族階級を押さえ、新興地主階級のための国家運営を進めた。だから、新旧社会変革の過程で、社会を先に進める大きな役割を果たし、歴史上の貢献をなし得た」とする。そして、ゴ丁寧にも「毛主席が我々に教えている」との“枕詞”をくっ付けて、「歴史上の奴隷主階級、封建地主階級とブルジョワ階級は政治権力を手にする以前と以後の過渡期において、意気軒昂で勇猛闊達である。それこそが革命者であり、先進者であり、真の老虎(とら)である証拠だ」との毛沢東の言葉を引用している。

 毛沢東の説く「真の老虎」は何を意味するのかは不明だが、楊寛は『商鞅改革』では商鞅改革のキモである法治について意図的に言及を避けたようだ。それもそうだろう。毛沢東の一言が立ち所に国家最上位の「法」となる“究極の人治”の時代に、商鞅が進めた法治を突き詰めて論じたなら立ち所に一切を失い、奈落の底に突き落とされかねないからだ。

 『商鞅改革』は楊寛が自らに降りかかる政治的暴風を避けるため、“恥を忍んでモノした”とも考えられる。やはり学者商売も命懸けだ。

 筋金入りの共産主義者で、毛沢東思想を武器に中国古代史研究に突き進んだ田昌五は『王充――古代的戦闘唯物論者』において、後漢の王充(27~97年)を「古代的戦闘唯物論者」と捉え、王充が時流に抗し、儒教を痛烈に批判し、無神論を訴えた点を捉え「戦闘的」と讃える。

 そこまでは理解できないわけはないのだが、結論部で恰も約束されてでもいたかのように林彪批判が飛び出すとなると、やはり探偵ドラマで見られた故松田優作の決めゼリフであった「なんだコリャ~!」と呆れるしかない。

 「林彪反党集団は(王充が強く批判し、王充を批判し続けた)反動統治階級の衣鉢を継承し、“天才”による独裁をデッチ上げるが、その内実は地主ブルジョワ階級のファシスト独裁である。林彪が説く反動的“天才論”はマルクス主義、レーニン主義、毛沢東思想にとっての大敵であり、党の大敵であり、人民の大敵であり、民族の大敵である。だからプロレタリア独裁を強固にし、資本主義の復辟を防止し、社会主義を建設するためには、唯心論的先験論と英雄が歴史を創造するとの反動的観点を絶え間なく批判し続けなければならない。これが我々に課せられた長期に亘る政治的任務であり、絶対的に毛主席に沿って林彪批判の整風運動の各項目を推進し、この戦いを徹底させなければならない」と結んだ。

 ここまでくると学術書ではなく、正真正銘の政治的パンフレットではないか。文革は学者もまた研究室に籠もって研究を続けることを許さなかった。いや、学者とはそのように生きるしか生きる術がなかったのかもしれないが、やはり田昌五は「筆杆子」の鑑だ。《QED》