【知道中国 2537回】 二三・六・仲七
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習203)
曲がりなりにも共産党一党独裁の国家である。ならば政敵を批判するのに、百歩譲っても精々がマルクスまでだろう。だが文革では2千数百年前の“過去”が有力な論拠になっている。
古代中国に、片方に孔子や孟子に象徴される儒家が、その儒家とは対極の思考を根拠とする法家が存在し、双方が仕官の道を求め、いわば頭と弁舌を武器に群雄割拠する時代を生きたことだろう。それは歴史的事実として認めるべきだが、では、なぜ林彪を批判するのに孔子を並列的に持ち出さねばならないのか。孔子批判に説得力を持たせるために法家を持ちだし、宰相である周恩来を婉曲に批判するのか。こう考えると、毛沢東や四人組に代表される当時の共産党中枢の方が、逆に孔子と儒家思想に拘っている、いや呪縛されているのではないか。こう考えてしまう。
ここで不思議な役回りの政治的・思想的役割を担う“学問的幇間”が登場することになる。彼らは万巻を数える中国の古典、さらには諸外国の書籍から、権力者(ご主人サマ)の意向に沿った理論的証拠(ヘリクツ)を探しだし、それら片言隻語を権力者の都合にピッタリと当てはまるように絶妙に組み合わせ、権力者の立場を補強するのである。
いわば古今東西の、ことに中国の遠い昔を現在に合わせるように都合良く“潤色”する役どころである。歴代王朝の政治中枢における権力闘争が往々にして学問論争に端を発する歴史を振り舞えれば、共産党政権だから批林批孔、儒法論争が起こったわけではなく、共産党政権が外見はともあれ、その芯の部分における統治姿勢においては、歴代王朝の伝統に忠実に従っているということだと思う。さて、この考えは突飛に過ぎているだろうか。
これら“学問的幇間”、現代風に言い換えるなら権力者にとって使い勝手のいいメディア・マシーンを「筆杆子(ペン)」と呼ぶ。
「政権はテッポウから生まれる」とは毛沢東の革命理論の大きな柱だが、ここで「鉄砲」とされているのは「槍杆子(テッポウ)」である。じつは毛沢東は戦場で敵に勝利するのは当然だが、それは戦いの本筋ではない。じつは圧倒的多数の民衆を味方陣営に引き入れる、つまり支持者に組み入れることに努力を傾注した。圧倒的数の支持者で敵を包囲してしまえば、後は赤子の手を捻るようなもの。勝利の女神が微笑むのは火を見るより明らか。自陣営の勝利は容易になる。いわば戦争、あるいは権力闘争において費用対効果の最も高い戦法といえるだろう。
周恩来打倒を狙って、四人組はこの戦法に打って出た。彼らは当時の中国における最高の知能が集まる北京大学と精華大学から最も見込みのある若手学者を掻き集め、「梁効」と「羅思鼎」の2つの理論集団(筆杆子の集団)を組織した。
ここで興味深いのが両集団の名前である。梁効はliangxiaoと読み、音は「両校」と同じで北京大学と精華大学の両校を寓意するに違いない。一方の羅思鼎だが、「羅思」は「luosi」の音でネジ(螺絲)を意味し、「鼎」は古代の国家権力の重みや正統性の根拠を象徴する器。そこで羅思鼎は、宰相たる周恩来の権力の牙城をネジで揉み込むように攻撃を仕掛ける、という狙いから命名されたのかもしれない。
こうみてくると、我が永田町の権力闘争は直截で分かり易すぎて面白みが感じられない。
それはともかく若手俊英を集めたところで説得力を欠く。そこで学界重鎮のお出ましとなる。その代表格が楊寛(1914~2005年)と田昌五(1925~2001年)の2人の古代史の大権威だ。前者の『商鞅変法』(上海人民出版社)、後者の『王充――古代的戦闘唯物論者』(人民出版社)が共に73年11月の出版。偶然の一致ではないだろう。四人組からの招集に応じたのか。それとも自ら志願したのか。大学者もノンビリしてはいられない。《QED》