【知道中国 2535回】                      二三・六・仲一

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習201)

 

 かりに孔子が日本に生まれていたとしても、中国のように“至聖”と崇め奉り、その考えが2000年を遙かに超える長い年月に亘って良きにつけ悪しきにつけ後の世を呪縛し続けるようなことはなかったのではないか。たしかに古代日本に孔子が生まれたら、と考えることは興味深いことだとは思うが、ここは先を急ぎたい。

 1973年10月の出版物で残るは『語文小叢書 漢語拼音入門』(余学文 北京人民出版社)、『歴史知識叢書 美国独立戦争』(郭聖銘 商務印書館)、『歴史知識読物 美国南北戦争』(羅瑞華 商務印書館)の3冊。これらを駆け足気味に紹介しておくこととする。

 先ず「広範な労働者・農民・兵士、及び青少年の言語文化に関するレベルを引き上げ、より効果的にマルクス主義・レーニン主義・毛沢東思想を学び取り、その他の科学文化知識を学ぶ」ために編まれたと謳われている『語文小叢書 漢語拼音入門』だが、その内容から判断する限り、どうやら街頭で展開されている文革派の革命宣伝のデタラメな言語表現を正そうとの意図が十分に窺える。

 全64頁の小冊子ではあるが、発音の正しさ、文章を音読する場合の個々の漢字の発する音やリズムの連環の重要性など、文革と言う特殊な時代環境下での政治的言語(政治的檄文)を超えた中国語の面白さを訴えているようにも思える。中国語の文章を目で捉えるのではなく音として理解する、言い換えるなら黙読ではなく音読で学ぶことの必要性を、それとなく教えてくれているようにも思える。

 ここで考えるのだが、これまでも言及した多くの中国語関連書(文法、修辞法など)から浮かび上がってくるのは、街頭で激しい戦いを展開した文革派末端――おそらく、その多くは労働者であったと思われるが――の文化・知的水準の低さではなかったか。

 であればこそ、ここで否が応でも思い浮かぶのが、映画監督・陳凱歌が自らの前半生を綴った『私の紅衛兵時代 ある映画監督の青春』(講談社現代新書 1990年)の次の一節だろう。

 「文革とは、恐怖を前提にした愚かな大衆の運動だった」

 「昔から中国では、押さえつけられてきた者が、正義を手にしたと思い込むと、もう頭には報復しかなかった。寛容などなどは考えられない。『相手が使った方法で、相手の身を治める』というのだ。そのため弾圧そのものは、子々孫々なくなりはしない。ただ相手が入れ替わるだけだ」

 「中国は何をやっても、ぐるりと円を描いていつも同じ地平に戻ってきてしまう。その間にどれほど多くの献身や努力、それに死が用意されようとも、結果はいつも同じだ」

 ――なにやら“結論”めいた具合になってしまったが、問題は「愚かな大衆の運動」が必然的に醸し出す無秩序ではなかろうか。そこが毛沢東の狙いだったのかもしれない。

 残るはアメリカの創生期を扱った『歴史知識叢書 美国独立戦争』と『歴史知識読物 美国南北戦争』とである。

 前書では独立戦争(1775~83年)を、「殖民地と封建的な圧迫に反対するブルジョワ革命であり、アメリカの独立戦争は歴史上極めて大きな進歩的意義を持つ」と捉えながらも、「新旧の搾取階級が交代しただけ。巨大なブルジョワ階級とプランテーションを経営する奴隷主たちが政権を握っただけであり、広範な人民大衆は依然として被搾取・被圧迫階級の地位に押し止められたままであった」と、その“限界性”を指摘する。

後書では南北戦争(1861-65年)は「ブルジョワ階級の革命」に過ぎず、労働者・農民大衆を救済し、黒人奴隷を真に解放する歴史的任務はプロレタリ階級に委ねられたのである――と、公式的な、余りにも公式的な歴史認識でアメリカを捉えるのであった。《QED》