【知道中国 2533回】                      二三・六・初二

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習199)

 

時代が時代であるだけに、当時出版された書籍の例に倣って、『幾何』『代数』は共に巻頭に『毛主席語録』から引用されているが、双方が共通して選んだのが「自然科学は人々が自由を勝ち取るための武備である。人々は社会おける自由を獲得するために、社会科学を学び社会を理解し、社会を改造し社会革命を進める。人々は自然界において自由を得るために、自然科学に基づいて自然を理解し、自然を克服し改造し、自然界から自由を獲得する」である。

ここから判断して、2冊の本格的な数学概説書は「自由を勝ち取るための武備」として出版されたと考えてもよさそうだ。ここでいう「自由」が毛沢東に反対する思想の自由を意味していたのなら、毛沢東を掲げて毛沢東に反対したとも推測は可能なのだが。

この推測が成り立つとするなら、中国においては学問・学術もまた政治と複雑・微妙にから絡まり合っているだけに、学者・研究者といえども常に政治との間に極度の緊張関係を強いられている。それゆえに政治との間に適当な緩衝地帯を設け、適度の間合いを取りながら政治と付き合うということは、じつに至難なことだろうと思える。

学問研究に政治のタガが嵌められている状況で、とどのつまり学者・研究者が嬉々として政治に隷属するのか。それとも政治に隷属する風を装いながら自らの研究者としての良心を貫くのか。どちらにしても、じつに生き難い社会であることは確かだろう。

それまでの倫理・道徳的側面に過度の偏った姿勢から脱し、科学的視点から大胆に見直すことで中国古代史研究に新しい局面を切り開いた顧頡剛(1893~1980年)は、自らの学問的自叙伝とも言える『ある歴史家の生い立ち  ――古史辨自序―― 』(岩波文庫 1987年)で、「志士の唯一の目的」を「身を殺して人を救う」ことであると綴った後、これに対比する形で「学者唯一の責任」を「政治を行うて世を救う」ことだろうと説いた。

顧頡剛が説くように中国では「政治を行うて世を救うのが学者唯一の責任である」なら、ここにみえる「政治」は、やはり「経世済民=世を経(おさ)め、民を済(すく)う」を意味するに違いない。かくて封建王朝から現在まで、政争=権力闘争の背後に学者の存在があり、学問上の異見が政策遂行上の対立を惹起・誘発することにつながるのだろう。

それにしても、である。やや極論に近いとも思えるが、政治や権力闘争と学問との“相関関係”の伝統を考える時、なぜ20世紀70年前後の共産党内の毛沢東と林彪の間の権力闘争に、2000年以上も昔の孔子が登場するのか。そのカラクリが判ろうというものだ。

毛沢東に楯突いた林彪を批判するに、「労働人民にとっては許し難い敵」である孔子を持ち出し、その孔子を信奉している(とはいえ、その論拠は甚だ曖昧。敢えて言うならコジツケ、言い掛かり)から、林彪は明々白々として人民の敵である。であればこそ人民にとっての太陽である毛沢東の敵でもある――と言ったリクツ(まさに屁リクツ)をデッチ上げ、奇妙奇天烈な三段論法で林彪を歴史の彼方に葬り去る。

これを今から半世紀ほど昔の日本に置き換えてみると、田中角栄の金権振りを批判するに、たとえば千数百年前に善政を行った聖徳太子を引き合いに出すことはない。それが日本人の常識的感覚だろう。ここら辺りに、歴史の捉え方、歴史観に対する感覚に日中双方の永遠に越え難い隔たりを、素朴に感じるのだが。

ここで振り返ってみるに、太平洋と中国大陸で戦っていた国家非常事態下の日本で、ここに示した『幾何』『代数』に相当するように分厚い高等数学の概説書が出版されただろうか。これまでみた文革時出版の英語学習書を含め、社会全体が口先ではともかく、実態的には必ずしも毛沢東バンザイ一色に染まってはいない姿に、学術研究のレベルを含め日本人が捉えることのなかった中国人像が投影されているようにも思えるのだが。《QED》