【知道中国 2530回】                      二三・五・念一

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習196)

 

 1973年9月4日、『北京日報』は北京大学と清華大学の「大批判組」と呼ばれる文革ブレーンが共同執筆した論文「儒家和儒家反動思想」を掲載した。このなかで儒家が古代と理想的な宰相と讃える周公を「旧奴隷制における政治の代表である」と位置づけた。中国社会で常用されている「借古諷今(過去に託けて現在を批判する)」の手法に照らすなら、どうやら周公は周恩来を暗示し、批林批孔の真の標的は周恩来となるわけだ。じつに微妙な政治的カラクリであり、だから中国の権力闘争の舞台裏は一筋縄では捉えられない。

以後、四人組の牙城であった上海で新たに創刊された理論誌『学習与批判』が「儒家と法家の闘争は、守旧と革新、復辟と反復辟の闘争である」を趣旨とする「論尊儒反法」(15日)、北京大学と清華大学の「大批判組」による「秦始皇在歴史上的進歩作用」(『北京日報』17日)、「這是一場革命――評秦始皇的焚書坑儒」(『文匯報』24日)、「孔子是「全民教育家??」(『人民日報』27日)、「焚書坑儒弁」(『人民日報』28日)、「焚書坑儒是対反動派的革命専制」(『北京日報』28日)と、反儒家論文が立て続けに主要紙に掲載される。

かくて江青の了承を受け、北京では「北京大学・清華大学大批判組」、上海では「上海市委写作組」と「中共中央党校写作組」などが四人組の下に組み込まれることとなり、ここに四人組のブレーンによる「筆杆子(ペン)」、つまりメディアの陣地が整うことになる。

毛沢東は敵に対する有力な武器として、テッポー(槍杆子)とペン(筆杆子)の2つを、ことにペンの持つ宣伝・教育・洗脳に関する機能をより重視し、巧妙に運用した。京劇を軸とする芸能全般も、この路線に従った。この毛沢東の手法に倣ったからだろう。四人組は周恩来に照準を合わせ、批林批孔運動の口火を切ることとなったわけだ。

とはいえ、中央で運動を始めたからといって、直ちに“紙の爆弾”が大量に製造され、それが香港の書店の店頭に並ぶわけではない。やはり若干の時間差は当然だろう。

だが9月段階での『関于孔子誅少正卯問題』(趙紀彬 人民出版社)の香港登場は衝撃的で、大陸でなにが起ころうとしているのか。新亜研究所の先輩連も興奮を隠さなかった。

「一九六九年十月初稿、一九七三年五月増改」と但し書きされた『関于孔子誅少正卯問題』は、春秋末年、魯の司寇(一説に警視総監に相当)に就いていた孔子が同国の有力者の少正卯を死刑に処した経緯を、万巻の古書を引用しながら分析し、孔子の非を論証している。それによれば当時の魯の社会は「“君子”による維新と“小人”による変革の二つの路線対立が先鋭化した」状況にあり、支配層(君子)の代表格である孔子に対するに、庶民(小人)の立場に立った少正卯は「法家の先駆者」であった。

当時、「庶民は腐れ果てた奴隷制を打倒し、新たに生まれる封建制を創造するための真に歴史を動かす原動力であった」。この闘いの理論支柱として先頭に立ったがゆえに、奴隷制守護の立場に立っていた孔子に殺されてしまった――と、趙紀彬は力説している。

かくして『関于孔子誅少正卯問題』は、「孔子が少正卯を誅殺してから秦始皇帝による焚書坑儒までの思想史の過程は、「人民(烝民・小人)による闘争の偉大なる勝利を反映し、歴史は奴隷制から封建制へと偉大なる発展を遂げたのである」と結ばれる。

これを敷衍するなら、法家を讃え、法家こそが歴史の発展を促した。これに対し儒家を歴史の歯車を逆回転させようとした反人民的存在であり、その代表が孔子であることを暴こうとした。つまり『関于孔子誅少正卯問題』は孔子批判の先駆であり、批林批孔の予兆と認めることが出来る。

初稿完成の1969年6月段階では毛沢東と林彪の対立は表面化していないから、林彪批判を孔子批判と合体させようなどの動きは想像すべくもないが、すでに孔子批判の動き。ならば周恩来批判は早い段階で画策されていた・・・藤村操に倣うなら、「曰く不可解」。《QED》