【知道中国 2529回】 二三・五・仲九
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習195)
古来、彼らは漢字という四角四面な文字と音から逃れられることはできなかった。いや漢字とその音に捉われ続けてきた。敢えていうなら、彼らは漢字という文字の《形と音の囚人》である。漢字を使ってコミュニケーションをしている限り、彼らは漢族であり続ける。であるがゆえに1949年の建国直後に起こった「漢字を使うな。ローマ字表記にせよ」との主張は、あるいはカクメイテキに正しかったのかもしれない。あの時、漢字を廃しローマ字表記にしていたら、中国人は現在とは違った立場で世界の中での中国の立ち位置を認識し、世界に対する眼差しは、超ジコチューの現在とは違っていただろうに。
『学点語法』は文章修辞における基本を過不足なく、しかも分かり易く解説している。中国人だけではなく、中国語を学ぼうとする外国人にとっても極めて便利なものだ。
巻頭に掲げられた「なぜ語法をまなぶか」との問題提起を読み進むと、「現在、いままさに全国で批林批孔と思想政治部門の教育が深化して進められ、革命大批判が広範な広がりをみせている。かくて言葉は我々が劉少奇、林彪一派のペテン師との闘いを進めるうえでの重要な道具であり武器である」との一文がある。
これに続いて、『毛主席語録』から、「いま我々は多くの宣伝工作同志を持っているが、彼らも言葉を学ばない。だから彼らの宣伝はウスッペラで、彼らの文章は誰もが喜んで読むことはない。彼らの演説に誰も喜んで耳を傾けようとはしない。なぜ言葉は学ばなければならないのか。確固たる決意を持って学ばなければならないのか。言葉というものは適当に身につけられはしない。一生懸命に学ばなければならないのだ」が引かれている。
どうやら、ここに見える『毛主席語録』の一文から、文革時に中国語の文法、修辞法に関する少なからざる出版がなされた社会的背景を読み取ることができるはず。これまで屡々指摘しておいたように、やはり文革過激戦士は“文明度”が低かった。「だから彼らの宣伝はウスッペラで、彼らの文章は誰もが喜んで読むことはない。彼らの演説に誰も喜んで耳を傾けようとはしない」とは、毛沢東の偽らざる“嘆き節”ではなかったか。
8月の最後は『歴史知識読物 中国原始社会』である。
「プロレタリア階級の革命学説、つまりマルクス主義のみが人類形成の歴史に対する唯一の正しい解釈である」との視点に立って、『歴史知識読物 中国原始社会』は「ヒトは労働によって創造された」と説く。類人段階から始まり、古代氏族制度、新人段階に移り、母系制社会から父系制社会へと変遷し、原始共同社会の解体までを詳細に綴る。
では、なぜ原始社会を学ぶのか。それは「マルクス主義弁証唯物論と歴史唯物論の原理を学ぶためである」。「唯心論的先験論に反対し」、「奴隷たちが歴史を創造したと説く唯物史観を堅持し」、「歴史を英雄が創造し、あるいは英雄と奴隷たちが手を携えて歴史を創造したとする唯心史観に反対し」、「毛主席のプロレタリア革命路線を堅持」するためであり、かくして「プロレタリア独裁を強固にするために、プロレタリア階級独裁下での継続革命を徹底して推し進めるために、共産主義を実現するために、断固として英雄的に闘い抜こう!」となるわけだ。
だが、ここで考えるのだが、共産党政権公認の歴史では、現代中国の歴史は毛沢東という「英雄」によって「創造」されたわけではなかったのか。あるいは毛沢東と称される「英雄」と「奴隷たち」とまでは言わないが虐げられた労働者・農民たちによって「創造」されたのではなかったのか。
毛沢東の説く「為人民服務」「自力更生」などは「唯心論」の類ではないのだろうか。『毛主席語録』は毛沢東版の『論語』ではないのか。『論語』の「学而時習之。不亦説乎」を超現代語訳すれば「毛沢東の「好好学習 天天向上」となるはずなんだ・・・が。《QED》