【知道中国 2525回】 二三・五・初九
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習191)
残るは『人民戦争威力無窮 我国民兵伝統戦例選編』(人民出版社)と『四部古典小説評論』(人民文学出版社)の2冊である。
『人民戦争威力無窮 我国民兵伝統戦例選編』は「毛主席の人民戦争思想の宣伝」を掲げた前書では、抗日戦争や国共内戦において全国で展開されたとされる「我国民兵伝統戦」を、「地道戦」「地雷戦」「麻雀戦」「囲困戦」「破撃戦」「攻心戦」「伏撃戦」「聯防戦」「捕捉戦」「?洞戦」「水上遊撃戦」「堅壁清野」に整理・分類している。
なお、「毛主席の人民戦争思想の宣伝」の「宣伝」は教育・洗脳であり、「麻雀戦」の「麻雀」はマージャンではなく小鳥のすずめである。つまり敵に対し即かず離れずして遠巻きにしながら、敵が分散して劣勢になったら一気に攻撃を仕掛ける戦法だ。毛沢東が説いた「敵が進めば我は退き、敵が駐(とどま)れば我は乱し、敵が疲れれば我は打ち、敵が退けば我は追う」「勝てるなら攻撃するが、勝てそうにもないなら後退する」である。
『人民戦争威力無窮 我国民兵伝統戦例選編』は、「地道戦」から「堅壁清野」までのそれぞれの戦勝の具体例を解説しながら、劣勢極まる兵力で圧倒的優勢を誇る敵を打ち破る「人民戦争」は「威力が無窮」であり、その要諦は「自らの勢力を温存し、敵を消滅すること」(毛沢東)であると力説する。
それぞれの戦勝例を読んでみると、よくぞまァ貧弱な兵力で強大な敵を撃滅できたものだと感心せざるをえないが、やはり「毛主席の人民戦争思想の宣伝」と銘打たれているだけに、これら“赫々たる戦績”をそのまま鵜呑みにするわけにもいかないだろう。
冒頭に置かれている総論は、「もし帝国主義と社会帝国主義が恐れ知らずにも我国に侵略戦争を仕掛けようとするなら、その時は我国の広範な民兵と圧倒的な人民は人民解放軍と力を合わせ、毛主席の革命路線の指導の下、党の領導の下、徹底して侵略者を叩きのめすぞ!」と結ばれている。
ここから判断するなら、ニクソン訪中によって描かれたであろう《米・中VSソ連》の構図に対し疑心暗鬼を拭い去ることができず、中国は依然として米ソ両帝国主義による攻撃に危機感を抱いていた。あるいは少なくとも国民には、米ソ両国からの挟撃の危険性が依然として存在していることを周知徹底しようとしていた――のではなかろうか。
『四部古典小説評論』は、『三国演義』『水滸』『西游記』『紅楼夢』の古典小説を「マルクス主義世界観と批判方法によって研究」した評論集である。そこで、このような「研究」を経ることで「我々は歴史遺産の中から有益な部分を学び取ることが可能となり、我々が階級闘争史の有益な教訓を認識し総括することに大いに役立つから」そうだ。
かくて『三国演義』は「統治階級の人物を描いた小説」で、『水滸』は「恐れを知らない革命精神で歴史の明るい面を讃える小説」で「(このような)プロレタリア階級の革命文芸は人民を団結させ、人民を教育し、敵を攻撃し、敵を壊滅させる有力な武器」とされる。
『西游記』は「孫悟空という極めて反抗心に富んだ英雄像を形作り、大いに讃えている」。その孫悟空は、「なにものをも恐れぬ人物として描き出された、不正や圧迫があれば、どこであれ直ちに“造反”する。既存の法や天理などというものを超えてしまいかねない」と、孫悟空を文革のキモである造反有理の英雄に見立てている。
『紅楼夢』の評論の書き手は李希凡だから、内容的には『曹雪芹和他的《紅楼夢》』(2514回参照)と大差なし。
それにしても現に激しく展開されている文革(=権力闘争)の正当性の補強手段として、なぜ4部の古典小説を持ち出し、古典小説から現代政治を左右する論拠を模索するのか。ここら辺りに、中国における政治と文学の持ちつ持たれつの関係が窺える。《QED》