【知道中国 1064回】 一四・四・仲三
――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(中野7)
「中国の旅」(中野重治『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年)
悲惨な結末に終わった反右派闘争を、隣の家の夫婦喧嘩にたとえる中野の無神経さ(今風に表現するなら「鈍感力」?)には驚き入るばかりだ。
中野は、「私がいうのは、中国の悪口になるようなことは書くなとか、〔中略〕歯に衣きせるな。口のブレーキはぶっ放せ。文学者の『精神的な自主性』に立って、いいと見たものも悪いと見たものも会釈なしにずけずけ書け」という。だが、「そのずけずけした批評そのものが、岸政府を押しかえして、目的を実現するための自然な条件つくりになるようにそれを書け」と注文をつける。ここでいう「目的」とは、最終的には日中友好関係の実現ということになるはずだ。
要するに中野は、日中友好を阻害し、両国間に正常な関係を実現させられない唯一最大の要因は岸政権にあるわけだから、そんな岸政権を利するような中国批判は書くなということだろう。ということは中野の基準でいえば、やはり相手にとって不都合なことはいわない、いってはならない、いうべきではない、ということになる。これが『歌のわかれ』『むらぎも』『梨の花』『甲乙丙丁』などを書いた文学者かと思うと、やはりガッカリである。
とはいうものの、中野は日本文学代表団団員の帰国後の対応に違いが生じたのは、「私たちの視野の狭さということがそこにあったかも知れぬと私として思う。視野の狭さというよりも、一旦ひらいた視野がまたつぼまったといった方が一そうあたっているかも知れない。たしかに私たちの視野は、中国へ行っていちじるしく大きく拡げられた」と記す。つまり、中国に滞在している間は「いちじるしく大きく拡げられた視野」も、帰国するや「またつぼまった」といいたのだろう。
ここで、中野のいう「視野」なるものがどんなものだったのかを検証してみたい。じつは中野は視野云々を書いた少し後に、火野葦平の「新怪談集」(『東京』1957年12月9日)を引用している。中野といわず、当時盛んに訪中した左翼進歩派の実態を知ることができそうなので、些か長いが引用しておきたい。
「一昨年、中国旅行をしたとき、私たち一行の中には、左翼の人がかなりいた。赤一辺倒であるから、中共のあらゆることを礼賛し、新中国をあたかも天国かのように賞揚していた。たしかに、あらゆる悪徳を強い政治力で追放した新中国には、日本も学ばねばならぬものがあり、私も革命の意義の大きさを認めるのに吝かではない。しかし、人間の自由の問題で根本的な疑義を持っているし、私は全面的に赤い国を肯定することはどうしてもできないのである。しかし、進歩的文化人諸子は、中国の一切合財を立派であると賞めちぎり、私の自由の論をも真向から否定した。ところが、四十日ほどの視察旅行を終えて、香港に出て来たとき、左翼人諸氏の大部分がガラリと変化した。解放されたようにホッとした顔つきになり、買い物をしたり、ごちそうを食べたり、酒を飲んだり、インバイを買ったりして、ノビノビと手足をのばしたのである。〔中略〕しかし、怪談はまだまだつづき、日本に帰ってくると、それらの人々は、今度は、堂々と、〔中略〕新中国を礼賛した。」
これが火野の文章であることを承知のうえで、次の中野の見解を考えてもらいたい。
中野は、「『・・・新中国を礼賛した。』とあるが、こんなことも私たち一行には全くなかった」と記した後、日本文学代表団団員仲間の書いた中国訪問記を読んでもらえば、それは判るはずだ、と記している。ならば、中野も訪中した「私たち一行」以外の「進歩的文化人諸子」や「左翼人諸氏の大部分が」滞在中の中国、復路の香港、帰国後の日本で、それぞれに全く違った行動を採っていたことを知っていたということになる。
まあ「進歩的文化人諸子」や「左翼人諸氏」といったって、その程度なんですね。《QED》