【知道中国 2516回】 二三・四・仲八
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習182)
それにしても、ベラボーに高い値段の墓地を、しかも長期とは言うものの実質的にはレンタルでしかないのに、なぜ購入しようとするのか。
需要と供給の関係で価格が決まり、市場原理に従って価格(地価)は変動すると言えばそれまでだが、習近平政権が推し進める「習近平新時代中国特色社会主義思想」から超高額墓地レンタル料が導かれるカラクリが解らない。地価の現状から判断して、表明的にはともかくも、実質的に中国社会は伝統の方向に揺れ戻っていると考えるしかないだろう。
『中国=文化と思想』をもう少し読み進むと、中国における共産主義の将来についての次の“卓見”にぶつかる。ドキッとさせられるが、最終的にはクスリとさせられる指摘だ。
じつは『中国=文化と思想』の原書である『MY COUNTRY AND MY PEOPLE』が英語で書かれ、ニューヨークで出版された1935年の10月、共産党は国民党による包囲殲滅作戦から逃れ、命からがら延安に辿り着いた。もちろん当時の共産党は風前の灯火であり、毛沢東だって強がってはみたものの、日本軍と国民党軍を腹背に迎えたらお先真っ暗ではなかったか。
にもかかわらず林は中国の将来に「共産主義政権が支配するような大激変」を予想したうえで、“その先の中国”に伝統を見出していた。
「社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を打ち砕くというよりは、むしろ個性、寛容、中庸、常識といった古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けのつかぬほどまでに変質させてしまうことであろう」と断じたのであった。
やはり、林語堂の先見性に驚くと同時に、墓地に対する中国人の執着心に呆れ返るしかない。旧弊墨守・伝統回帰・・・だから中国人に対する興味は尽きないのである。
閑話休題。
73年4月が過ぎ5月となると、毛沢東が中央工作会議で林彪批判(批林)と孔子批判(批孔)とを連携させることを提案した。8日から10日間、周恩来は執務室に籠もりっきりで、党内で発生した路線党争の歴史(『中共歴次路線闘争歴史』)を整理している。
5月で最も注目すべきは、章士釗(1881~1973年)が毛沢東の密命を受け、香港在住の親戚訪問を表向きの理由にして、両岸秘密交渉に臨むべく香港に飛んだことだろう。章士釗は革命派として辛亥革命に参加して以来、一貫して中国政治の中枢で重要な位置を占めていた。
1949年には国民政府(蔣介石政権)から派遣されて共産党との和平交渉代表に就いたが、大陸に残り北京政府の重要ポストを歴任。柳宗元研究の大家であり、毛沢東に深く信頼されていた。それだけに当時の両岸関係からするなら、両岸交渉にはうってつけの人物だったに違いない。
香港着2か月後の7月1日に章士釗は死去した。享年93。はたして蔣介石の密使も香港に向かっていたのか。この時、両岸秘密交渉が動き出していたら、その後の両岸関係も現在とは違った道を歩んでいた可能性は高かったであろうと考える。
因みに章士釗の死から2年ほどが過ぎた75年4月に蔣介石が、さらに1年半ほどが過ぎた76年9月に毛沢東が死亡し、両者のみが知る《怨讐政治》に幕が下ろされた。
73年4月出版で手許に置いてあるのは、『祖国的好山河』(上海師範大学地理系《中国地理》編写組 上海人民出版社)、『中国古代両種認識論的闘争』(潘富恩 瓯群 上海人民出版社)、『向陽院的故事』(徐渶 人民文学出版社)、『海的女児 児童文学選輯』(人民文学出版社)、『藍色的海疆』(紀鵬 人民軍学出版社)、『怎様練習游泳 体育鍛錬方法叢書』(穆祥英 人民体育出版社)、『新印音譜 二』(上海書画出版社)の7冊。
最初に取り上げたいのが『祖国的好山河』である。それというのも文革期の彼らが自らの国土をどのように捉えていたかを知っておく必要もあろうかと思うからである。《QED》