【知道中国 2506回】                      二三・三・念七

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習172)

『談談社会主義企業管理』はさらに続ける。

社会主義社会においても資本主義社会と同じように企業管理はある。だが、資本主義のそれが資本家と労働者の間の支配と被支配、搾取と被搾取の関係に基づくのとは大いに異なる。では、どこが、どう違うのか。

じつは「社会主義企業にも管理、監督、生産調整の職能はあるが、社会主義社会の企業における人と人の関係、つまり社会主義の生産関係を反映している。社会主義企業においては、生産にかかわる一切は労働人民全体の所有に帰し、労働者大衆は企業の主人である」と規定される。

このようにして「常に大衆を信頼・依拠し、労働者大衆を組織しやる気を出させるように働きかければ、企業活動は活発化し、生産はうなぎ登りに拡大する。これに対し、常に少数の管理担当者や技術者だけに頼り、大衆に不信感を抱いたままなら、企業活動は気息奄々として冷え込む一方だ。だから、全身全霊で労働者階級に依拠し企業管理を強化し、社会主義企業の経営権をプロレタリア階級の手に固く握らせてこそ、社会主義の生産関係を絶え間なく完全な形に近づけ発展させることが可能となり、プロレタリア階級独裁を強固にする任務を基層部分にまで貫徹させ、不断に生産力の発展を促す」ことになる。

さらに「社会主義の企業管理に当たっても専門の管理者は必要不可欠であり、同時にその働きは十分に発揮させなければならない。だが管理者は、党と国家の委託を受けているという厳然たる事実を深く心に刻み付けておかなければならない」と、改めて党あっての企業管理であるとの大原則を強く打ち出す。

――「先富論」から始まった流れを「中華民族の偉大な復興」へと振り向ける習近平政権が異例の3期目に入った現実に接すると、「(企業)管理者は、党と国家の委託を受けているという厳然たる事実」なる表現が一面では虚しく、一面では超リアルに響いてくる。

であればこそ、またまた林語堂『中国=文化と思想』(講談社学術文庫 1999年/原典は『MY COUNTRY AND MY PEOPLE』1935年にニューヨークで出版)に登場願わないわけにはいかないだろう。

1930年代の中国から将来の中国を見据え、林は「共産主義政権が支配するような大激変」を予想したうえで「社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を打ち砕くというよりは、むしろ個性、寛容、中庸、常識といった古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けのつかぬほどまでに変質させてしまうことであろう」と呟く。

こう中国における共産主義と古い伝統の関係を捉えると、あるいは習近平は鄧小平、江沢民、胡錦濤と続いた中国で蘇りつつあった「個性、寛容、中庸、常識といった古い伝統」を、「社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義」によって再び「粉砕し、その内実を骨抜きにし」ようと“奮闘”している。ならば「中華文明の偉大な復興」の逆噴射だ!

さて1973年に戻って、次は『美国経済的衰落』である。

 この本が出版された当時、おそらく北京大学経済系には経済学に関し当時の中国における最高の頭脳が集まっていたに違いない。その最高頭脳が絞り出した結論が「美国経済的衰落(アメリカ経済の没落)」になるならば、この考えに寸分の狂いもあろうはずもない。なにせ論拠は、マルクス経済学と「百戦百勝の毛沢東思想」なんだから。

そこで「“経済強者”という力も彼らが掌握する政治権力にあり、このような政治権力を持たない場合は直ちに自らの経済覇権を保つことは出来なくなる」(レーニン)を根拠に、アメリカ経済の根本構造は産軍共同体制にあり、と大上段に身構えてみせる。《QED》