【知道中国 2501回】                      二三・三・仲五

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習167)

――恨みの炎は燃え盛り、流れる涙も乾いてしまう。恨みは尽きぬ旧社会(あのじだい)、口に含むは困苦の水で、身に受けるのは苦労の山。

三つの年にはしかを病めば、母ちゃんの心は砕け散る。カネがなければ医者にもかかれず、一家は今日すら生きられず、奈落の底に突き落とされた。あの日から、真っ暗闇の人生を運命づけられ生きてきた!

涙を流す母ちゃんの、うちひしがれる父ちゃんの、売られていった姉ちゃんの、乞食に出かけた兄ちゃんの、姿を目にすることすらできぬ。

吹き荒ぶ風の音、雨漏りの音、金貸しの家の猛犬の呻き声、借金取りの足音、耳にするのはそればかり。天は黒々とした重石となって頭上に覆いかぶさり、地は煤けた鍋底のように真っ黒だ。年がら年中みる夢は、真っ赤な太陽の耀く光。

たちまちにして大地に春雷の響きを聞く。三つの大山を打ち砕き、春風は木々に鮮やかな鉄の花を咲かせ、紅旗は貧乏人の涙を拭き取ってくれた! 

両の目をそっと撫でると、まるで死から蘇ったようだ。目は見えぬが志は挫けない。心の裡に太陽が昇る。

翻身苦訴会に出かけ、地主の万悪の罪を訴えた。

千年も奪われていた土地が我が家に戻り、合作化の歌声は清らかに流れ、合作化の足取りは大地を揺さぶる。大躍進の戦鼓は高らかに打たれる! 嗚呼、十月のサトウキビはどこまでも甘い。我等の生活は一年、また一年と麗しく・・・

文化大革命の嵐が巻き起こり、劉賊(劉少奇)を完膚なきまでに打ち砕く。ブルジョワ階級司令部を粉砕し、毛主席が派遣された医療隊が我が村にやってきた。三寸の銀色の針、何種類かの薬草、治療すること三ヶ月・・・目が開いたのだ。嗚呼、また太陽を目にできる。まるで夢だ! 頭を上げて周りを見回す。ジッと、ジッと。涙を拭いて光を目に・・・救いの星の毛主席が目の中に飛び込む。心の裡に溜まっていた思いは泉のように湧きだす。

あなたは誰、あの人は誰? 部屋中の顔が微笑む 母ちゃんと叫ぶ、妹を呼ぶ、四つの目が微笑み、心は押さえられない。口を噤んではいられない。ジッと座っていられない。足を動かさずにはいられない。

見たい。話し掛けたい。唱って飛び跳ねたい! 飛び回って思いっきり見たい。祖国の山、祖国の河、麗しい祖国の姿とたわわに稔る稲穂を・・・声の限りに「東方紅」を唱えば、体に漲る勇気は百倍。

北京に向かって心の底から歓呼する・・・毛主席万歳!万歳!万々歳!

――ここに見る「三つの大山」とは帝国主義、封建主義、官僚資本主義を指し、「翻身苦訴会」とは生まれ変わった新しい社会でも旧い社会で横暴の限りを尽くした地主や資本家の罪業を忘れることなく語り継ぎ、毛沢東と共産党に対し心の底から感謝することを煽った集まり。いわば旧悪告発・地主糾弾のための人民裁判である。

 旧社会で辛酸を舐め、3歳ではしかに罹り貧乏がゆえに治療すら受けられず盲目になったが、「文化大革命の嵐」が巻き起こり、「毛主席が派遣された医療隊」による手厚い治療の結果、「また太陽を目にできる」ようになったわけだ。

 それはそれで奇跡としかいいようはなさそうだが、こうなったら毛沢東は革命の指導者というよりは、まるで超の字の付くような奇跡を巻き起こす新興宗教の教祖サマだ。とするなら当時の中国は宗教国家であり、文革は常軌を逸した宗教運動だったようにも思えてくる。

残る1冊の『漢語提帯複合謂語的探討』は謂語(=述語)に関する純然たる文法書だが、出版の背景には文革時の低い漢語レベルに対する相当の危機意識が感じられる。《QED》